アヘン戦争の原因・不平等条約とは何かをわかりやすく解説



▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは







 

▶1800年代
⑤アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ





▼アヘン戦争 1840〜1842年
1700年代の終わりに、インドの領有権を巡るフランスとの戦争に勝ったイギリスは、その勢いに乗じて、インドから東南アジア、東アジア方面に勢力を伸ばしはじめます。

イギリスはとうとう、これまでどこの国も侵略の手を伸ばしてこなかったアジアの大国、清国(現在の中国)に目を付けます。


清国は当時、それなりに栄えていました。
そのため、特にイギリスと貿易を行う必要がなかったので、イギリス人が持ち込んだ物産にほとんど興味を示しませんでした。

イギリスはなんとかして清国の富を収奪しようと考え、植民地インドで生産した「アヘン」という麻薬を、清国政府に隠して民間人に売りつけようと画策し実行に移します。

その結果、「アヘン」は瞬く間に清国中に広まり、清国の人々はたちまちアヘン中毒になってしまいます。

そして、イギリスの思惑通り、清国の人々はアヘンを吸引せずにはいられなくなり、イギリスからアヘンを入手するために、どんどん貴重な品々をイギリスに売り渡すようになります。

当然のことながら、清国政府はこれを深刻視し、イギリスからのアヘンの密輸を禁止します。

すると、イギリス政府は待ち構えていたかのように、この清国政府の対応に腹を立て、1840年に清国を相手に戦争を起こします。

これが有名な「アヘン戦争」です。

イギリスは、麻薬を密売したあげく、それが清国政府にバレてしまったからといって戦争に踏み切ったのですから、まったく理不尽としかいいようがありません。

まるでフィクションのような酷い話ですが、事実です。

もちろん、この戦争はイギリスにとってははじめからそうなることを見越しての戦争でしたので、清国には勝ち目はありませんでした。

この戦争により、イギリスは「南京条約」という不平等条約を清国との間に締結し、都合良く清国に自国の商品を買わせるように上海をはじめとする港を開放させ、香港を割譲させます。(割譲とは部分的にその都市の領有権を譲り渡すことをいいます)


▼第二次アヘン戦争(アロー戦争) 1856〜1860年
しかし、ここでイギリスに誤算がありました。

「南京条約」により、清国から莫大な富が得られると踏んでいたイギリスでしたが、思ったほどの利益が得られなかったのです。

そこでイギリスは、再び前回と同様にアヘンの密貿易を行い、それを取り締まった清国政府に対して再度非難を浴びせるとともに、戦争を仕掛けます。

これが、第二次アヘン戦争(アロー戦争)です。

この戦争も当然イギリスの勝利に終わります。

ちなみに、この、イギリスが勝つことが前提で行われたような戦争には、戦後の利益を狙ってフランス、アメリカ、ロシアがなぜか都合良く「連合国」として参戦しており、戦後処理にそれぞれが口を挟むかたちとなったことで清国はそれらの国にも領土を部分的に植民地化されることとなってしまいます。

こうしてアジア最大の国土と長い歴史を誇っていたシナ・清国は、欧米諸国に領土をいくつにも分断された、半植民地状態になってしまったのでした。




また、その頃、東南アジアや太平洋地域の国々も、次々に欧米の植民地になっていきました。

1800年代後半から1900年代前半へかけて、イギリスはオーストラリア、ニュージーランド、マレー半島などを、フランスはベトナム、ラオス、カンボジアなどを、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを、ドイツが太平洋沖の各諸島をそれぞれ植民地とし、東南アジア、太平洋地域で植民地化されていないのは日本以外では、タイ、モンゴル、清国の一部、朝鮮のみという状況にまでなってしまいました。


▼その頃日本では…
日本にペリー提督率いる「黒船」が、現在の神奈川県、浦賀沖に来航したのは、世界がそのような状況になりつつあった1853年のことでした。

ちょうど「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争」の間です。

このとき、アメリカのペリー提督一行が日本に「開国」を迫り、清国が突きつけられたものと同様の「不平等条約」の締結を要求しましたが、日本(徳川幕府)は回答を一時保留し、翌年回答する約束をするに留めました。


この「不平等条約の締結というのは、欧米列強が当時、他国を植民地化するときに用いていた常套手段でした。

欧米諸国は、まず、軍事力で一気に征圧できる地域、つまり、大した軍事力もない地域には有無を言わせずに軍隊を駐留させるなどしてあっという間に植民地化してしまいますが、その土地を支配する国家権力がそれなりに力を有するような場合には、まず、「不平等条約」の締結を迫るのです。

「不平等条約」とは、欧米諸国がその土地の富を入手できるようにするための一方的な条約で、欧米諸国にばかり都合の良いことが書かれている理不尽極まりない取り決めなのです。

その「不平等条約」締結の提案を拒んだ時は、「自分たちとの友好を拒んだ=敵対した」ものとして自分たちの「正義」を主張して戦争を仕掛けるなど、暴力に訴えて土地の領有権などを主張しはじめます。

この手法は、1400年代のスペイン、ポルトガルの時代に、彼らがキリスト教の布教を正当化していたあの頃の暴虐無人な手法の名残りと言えるでしょう。

つまり、不平等条約の締結を迫られるということは、それを受け入れても拒んでも、いずれは植民地化されて富を収奪される運命にあるものなのです。

ペリーが日本に締結するように提案した「不平等条約」は、まさのこの植民地化の常套手段だったというわけです。


そしてその翌年、日本(徳川幕府)は、清国と同じような目に遭わされることを恐れ、不平等条約であることを承知で「日米和親条約」を締結、さらに4年後には「日米修好通商条約」という不平等条約も締結させられ、以後、「アメリカと結ぶならうちとも結んでくれ」とばかりに言い寄ってきたイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも同じような不平等条約を結ぶことになってしまったのでした。

これを機に、日本国内では幕府の弱腰外交への批判が高まり、薩摩藩、長州藩を中心とした討幕運動が激化し、「明治維新」へと繫がります。

そして、1868年(明治元年)江戸幕府が実権を失い、明治政府が誕生します。 これにより日本は「富国強兵」を合言葉に、軍備をはじめとするさまざまな様式の近代化に踏み出しました。

これは、江戸時代約270年間の平和により、開いてしまった欧米諸国との軍事力の差を埋めることが第一の目的だったといえます。

つまり、ここまでの歴史の流れから、この時代の日本の「近代化」が目指した最大の目的は、「欧米列強の植民地支配を受けず、独立国であり続けること(自存自衛)」だったということになります。


当時の日本人は、以上見てきたような経緯で欧米諸国の侵略の脅威に直面しました。

アメリカ大陸やアフリカ大陸、インドや清国をはじめとする有色人種の国々が、約500年前から直面してきたヨーロッパ人による侵略の脅威に、とうとう日本人も直面し、どのようにして国家の存続を保つかという、これまで経験したことのない「死活問題」に直面したわけです。


これまでの歴史を振り返ってわかるように、世界中でヨーロッパ人の侵略を食い止めることができた民族や国はほぼ存在しませんでした。

つい数年前まで、いっさいの戦争から遠ざかっていた日本人が、突如として現れた絶望的な危機に対し、その解決方法と生き残る術を模索せざるを得なくなったのです。

日清戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは



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