第二次世界大戦・太平洋戦争の原因をわかりやすく解説



▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは







 

▶1938〜1945年
⑧第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)





▼第二次世界大戦にいたるまでの経緯
1783年に、イギリスの植民地から独立を果たしたアメリカ合衆国は、当時のイギリスやロシアに比べて、まだまだ小規模な新興勢力でした。

前項に述べたとおり、ちょうど日本が日露戦争に勝ったのと時を同じくして、アメリカはスペインとの戦争に勝ち、フィリピン、グアム、プエルトリコを侵略し、さらに勢いに乗じてハワイなどの太平洋沖の島々を侵略したあたりでようやく他の欧米諸国の認める「大国」となったのです。

つまり、他の列強に肩を並べて「大国」の仲間入りを果たした時期は、アメリカも日本もそれほど代わらなかったわけです。

そのため、日露戦争に勝った日本を、アメリカは極度に意識し、警戒しました。

それは、東アジアの植民地争い、――主に、このころ勢力が極端に衰えていた清国での領土分割争いにこれから参戦しようとしていたからでもありました。

これは、地球上に魅力的な植民地として手つかずの土地が、この頃にはもう清国の領土ぐらいしかなかったということでもありました。


日露戦争後の日本は、「大国」に肩を並べたとはいえ、日露戦争に国力のほとんどを使い果たし、それ以上の領土拡大や、他国との戦争などはおよそ考えられない状態でした。

しかし、そんな日本の国内事情とはまったく無関係に、アメリカは必要以上に日本に対して厳しい態度を取りはじめます。

まず、日清戦争後のロシアと同様、日本が日露戦争で勝ち取った満州鉄道をはじめとする中国大陸における利益をアメリカにもよこせと言ってきます。

その要求があまりにも横暴なものだったので日本は当然拒否しました。

すると、アメリカは、イギリスに日英同盟を破棄するようにすすめたり、イギリス、フランスと結託して日本に経済制裁を行ったりするなど、それまでの友好関係もまったく無かったかのような態度に出て日本の孤立化を図ります。

日本が明治維新の後、ロシアの脅威にさらされていたときは、日米関係は非常に良好なものでしたが、結局のところ、そのような日露戦争以前の友好関係は、アメリカにとっては東アジアにおける利権争いのための、単なる自己都合にすぎなかったわけです。


そして、アメリカがそのように態度を一変させた原因は他にもありました。

それは、「人種差別」です。

前項で述べたとおり、日露戦争は、白色人種の国家に有色人種の国家が勝った史上はじめての記念すべき戦争でした。

これも前項で述べましたが、その勝利により日本は、他の欧米諸国・白色人種国家と対等に意見を戦わせることが可能な立場になりました。

また、日露戦争後、世界中の欧米諸国の植民地では、有色人種の人々が日本の勝利に感動し、狂喜乱舞したことも前に書いたとおりです。

そのような有色人種の人々の様子を目の当たりにして、欧米諸国の白人たちがどれほど日本を脅威に思ったかは想像に難しくありません。

つまり、有色人種の側から見れば希望に満ちた日本の勝利だったのですが、白色人種の側から見れば、日本が有色人種を率いて反旗を翻してくるのではないかという脅威そのものでしかなかったのです。


その影響からか、日露戦争後しばらく経って、ヨーロッパのメディアで「次は日本とアメリカが戦争をするだろう」という記事が散見されるようになります。

もちろん、そこに人種的な対立の意味合いが強くあったことはいうまでもありません。

当時の日本人は、それらの報に驚きました。

なぜなら、それまでお人好しの日本人はおしなべて、「アメリカはまったくの友好国」だと思いこんでいたからです。


この頃、日本人を恐怖で震撼とさせた一つの事件がありました。

1907年3月に、突如アメリカの軍艦16隻が、船体を真っ白に塗り、何の前触れもなく日本の太平洋近海に現われたのです。

この事件について、欧米の新聞各紙は、「日米戦争」がはじまるものとして報じましたが、日本はまったく寝耳に水で、黒船来航以来の恐怖を日本国民に与えました。

そして、日本側はこのとき戦争になるのを避けるために急遽この「白船来航」を歓迎することとします。

歓迎の式典を大々的に行い、横浜に上陸したこの米軍一行を国を上げたお祭りムードをむりやり装って歓待することで、非常事態を回避したのでした。


「Welcome!」などという見出しでむりやり白船を歓迎する明治41年10.18付けの朝日新聞


このアメリカのあからさまな威嚇行動を受け、日本でもアメリカとの戦争は避けられないものとする意識が芽生えはじめます。

そして、欧米諸国の反応からも、人種の違いの壁や、反日感情の高まりを強く感じはじめました。


その後、日本はそのような世界の人種差別的風潮を受けて、1918年に、第一次世界大戦が終結した後のパリ講和会議の席上で「人種平等に関する提案」という人種差別撤廃案を提出します。

その提案に対する投票の結果は、賛成17/反対11と賛成多数であったものの、委員長を務めていたアメリカ大統領のウィルソンによる「このような重大な案件は全会一致でなければダメだ」との理不尽な独断で不採決となってしまったのでした。

このパリ講和会議の一件について、アメリカの黒人歴史学者のレジナルド・カーニーは著書の『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』のなかで次のように書いています。

 第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界秩序を元に戻そうと、パリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。
 ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための一四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった一五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる一五番目の提案であった。(中略)人種平等の実現を目指していた日本と、そうでなかったウィルソン。その差がここにでたと言ってもよいだろう。
 もし日本のこの一五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。(中略)アメリカ黒人がほかの連盟の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。(中略)「おそらく世界でもっとも有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。
(中略)全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で、”人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」
「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
――レジナルド・カーニー『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』


アメリカの「日本いびり」はさらに続きます。

アメリカは1922年、ワシントン会議で日本とイギリスの同盟を解消させ、さらに日本は主力軍艦を建造してはならないという条約まで日本に押しつけます。

アメリカ国内では、日本からアメリカへ渡った日本人移民への差別が激しくなり、1924年にカリフォルニア州で「排日移民法」という法律ができ、日本からの移民を禁止するという事態にまで及びました。

それから、当時清国で王朝が滅び、いくつもの勢力に別れて混沌としていた中国の政治に、日本は口を出すなと言ってきたかと思うと、さらに、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる、いわゆるABCD包囲網と呼ばれる日本への一方的な経済制裁を行ったことで、日本の物資の欠乏は深刻な事態を迎えてしまいます。

このような、あからさまに日本を敵視した日本孤立化への動きが、実際に真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦に至る以前、数十年間に渡って行われてきたのです。

つまり、「太平洋戦争(第二次世界大戦)」とは、そのようなアメリカの「世界の覇権」への執着と「人種差別」的な意識が日本を追いつめたことで起こった戦争なのですが、そのような事実上の「抗争」は、実際に武力衝突が起こる以前2〜30年間に渡って繰り広げられていたことなのです。


そして、最終的に日本は、自国の完全な孤立化を回避し自国の存続を維持するためには、アジア諸国を欧米の植民地から解放し、それらの国々と一致団結するしか道はないと考えます。

日本がアジアを結束させ、指導的な立場に立ち「大東亜共栄圏」をつくることでアジアの独立と団結を一挙に図ろうとしたのです。

そしてとうとう「ハル・ノート」という事実上のアメリカ側からの最後通告を拒絶し、「大東亜共栄圏」の実現をめざして、1941年12月8日、ハワイ真珠湾の米軍基地を攻撃し、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと突入することになるのです。

第二次世界大戦・太平洋戦争の経緯・年表

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(C) 第二次世界大戦・太平洋戦争敗戦までの一部始終