日本の植民地・マレーシア・シンガポール(イギリス領マラヤ)の場合を分かりやすく解説



▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは







 

▶1938〜1945年
⑧第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)





▼マレーシア・シンガポール(イギリス領マラヤ)の場合

戦前〜日本の「侵略」まで
マレー半島の南部に位置する現在のマレーシアとシンガポールは、当時は「イギリス領マラヤ」と呼ばれており、ポルトガル、オランダの植民地を経て1800年代初頭から徐々にイギリスの植民地化が始まり1900年代初頭には実質的に全土がイギリスの植民地となっていました


マレー半島南部の原住民はマレー人でしたが、イギリスの植民地化後の移民政策により、華僑(中国人)とインド人が次々流入し、太平洋戦争開戦直前には、華僑の人口がマレー人の人口をしのぐまでに増えていました。

この地域における主な産業は、錫(すず)と天然ゴム産業でしたが、イギリスの移民政策により優遇を受けた華僑(中国人)とインド人がそれらの主要産業をほぼ独占してしまったため、マレー人たちは社会からつまはじきされる結果となります。

そんな不遇にあっていたマレー人たちの独立志向は日増しに強くなっていました。


当時のイギリス領マラヤに、マレー人たちの間で「ハリマオ(虎)」と呼ばれ尊敬されていた独立活動家がいました。

彼の本名は谷豊といい、現地に住む日本人青年でした。

彼は、特に日本政府や日本軍から派遣された人物ではなく、現地で理髪店を営む日本人一家に生まれた一青年にすぎませんでした。

彼はあるとき暴徒化した華僑に妹を殺害され、さらに、イギリス植民地政府が、華僑に対する優遇措置と、被害者が日本人であることなどから犯人を釈放してしまったことに憤り、その事件をきっかけにして、同様の不満を持つ周囲のマレー人たちを駆り集めて独立活動を開始していました。

彼の活動はイギリスの目にも留まり、高額の懸賞金が掛けられるなどしており、逆に、マレー人たちの間では信頼厚い人物として名が通っていました。


そんな状況で迎えた1942年12月8日、真珠湾攻撃のあったこの日、日本軍は同時にマレー半島へ進攻を開始します。

イギリス軍は、マレー半島最南端のシンガポールに「世界最強の要塞」を自認するほどの堅固な要塞を築き、主に海からの攻撃に備えていました。

ところが、日本軍は、マレー半島中央に位置するコタバルに上陸すると、現地のマレー人の協力を得、自転車で生い茂った森を南下するという意外な作戦でマレー半島最南端のシンガポールに攻め上がり、イギリス軍の虚を突きます。(このとき、日本軍は前述のハリマオ(谷豊)にも協力を要請し、谷らの力を借りています)

イギリス側では、鬱蒼とした森から日本軍が攻め寄せて来る可能性はないものと高をくくっていたことから、この日本軍の大胆な作戦のまえにあっという間に屈することとなります。

1942年2月15日、イギリス極東軍事司令官パーシバル中将は、無条件降伏します。

日本の軍政下のマレーシア・シンガポール
日本がマレー半島からイギリスを追い払ったことに対する、現地の人々の反応は様々でした


現地の原住民であるマレー人たちは、マレー作戦の際に日本に協力したことからも分かるとおり、非常に日本の占領には好意的でしたが、前述のとおり、当時の人口状況は、イギリスが勝手に移民させた華僑(中国人)が半数異以上を占めていました。

華僑はイギリス政府から優遇を受けていたため、その優遇を受けられなくなることから日本の占領には非常に不満を持ち、また、前述のハリマオ・谷豊の例でも分かるとおり、華僑は日本の占領以前から、マレー人をはじめとする異民族に対して暴力的な態度を取っていました。

また、中国本土では日中戦争が繰り広げられていたことから、反日感情が強くありました。

そのため、日本の軍政下でも活発にテロ行為に及んだことから、そんな華僑に対し、日本軍は弾圧を加えます。

この弾圧により、日本では一般的に5千人の華僑が日本軍に殺害されたとされていますが、現地では現在、シンガポールの華僑たちが4万人や5万人という説を主張しているなど、実際のところどれほどの規模でどのようなことが行われたのかは分かっていません。


また、華僑と並んでイギリスの移民政策により移住したインド人たちは、日本によるマレー作戦に敵側として参加していましたが、実はシンガポールでの戦闘時に日本側に寝返るような手はずが整っていました。

結局、戦闘に参加する前にイギリスが無条件降伏してしまったため、イギリス降伏後に日本側へ投降することになった6万人の投降インド兵たちは、日本がマレー半島にやってくるのを待ち構えており、日本とともにイギリスと戦うつもりだったのです。

しかし、日本軍の進撃があまりにも早かったため、そのような寝返り工作は行われませんでしたが、その後、この6万のインド兵たちのなかから、日本の支援のもと「インド国民軍」が結成され、祖国インドの独立に大きく貢献することとなります。


日本軍政の失敗
以上のように、日本の軍政は、現地の人々にとってそれぞれの受け止め方をされたわけですが、マレー人やインド人など、日本の占領に好意的だった人々からも日本が施した政策はほとんど評価されませんでした


日本はこのマレー半島という地域(特に最南端のシンガポール)を、地政学上の理由から、他の国々よりも重要視していました。

そのため、ただの植民地としてではなく、シンガポールに「昭南島」という名称を与え、日本の一都市のように扱います。

そのため、現地の人々に対して日本語教育を徹底し、神社を建立するなど、日本文化を急速に広めようとした結果、暴力的で強引な手法がとられたことから、現地の人々の心をつかむことに失敗しました。

これは、日本が植民地政策に不慣れであったことから起こった失敗と言えるでしょう。

ただし、日本の軍政がすべて失敗だったかと言えばそうではありません。

日本は、華僑を弾圧した反面、原住民であるマレー人を徹底的に優遇し、マレー人のための学校の建設や、政治政党の結成、イスラム教の容認、昭南興亜訓練所という人材育成機関の設置し、エリートを育成するなど、イギリスにほとんど動物扱いされていたマレー人たちに民族の誇りと独立心を施しました。

このようなマレー人への優遇政策は、戦後のマレー人たちの政治活動に大いに変革をもたらしたのです。

日本敗戦後のマレー半島
日本の占領期間末期には、アメリカ軍の空襲により大きな被害を出し、また、食料や日用品が不足した状態で、1945年8月15日の終戦を迎えました


日本の占領政策の失敗により、現地の人々は再度植民地化しに戻って来たイギリス軍を「解放」と称して歓迎しますが、日本の占領以前の状況とはまったく異なりました。

特に異なった点は、やはりマレー人の政治的な意識でした。

それまで「独立」ということを考えるきっかけさえ与えられてこなかったマレー人たちは、日本の占領期を経て、イギリス人による支配に疑問を持つようになります。

そして、マレー人を中心とした独立運動が活発化し、1957年にマラヤ連邦が独立を果たし、その後、シンガポールなどの周辺地域と合流して国名をマレーシアとしますが、マレー人中心の社会に不満を持った華僑(中国人)が、1965年にシンガポールとしてさらに独立しています。

つまり、結果的には、日本の優遇政策により独立心が芽生えたマレー人たちがマレーシアという国を、日本の弾圧を受けた華僑が中心になって建国した国がシンガポールになったというわけです。




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