日本の植民地・フィリピンの場合を分かりやすく解説



▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは







 

▶1938〜1945年
⑧第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)





▼フィリピンの場合

戦前〜日本の「侵略」まで
フィリピンはアジアではじめてヨーロッパの植民地になった国で、1529年、サラゴサ条約により一方的にスペインの植民地に編入されました。

スペインの植民地時代には、フィリピンの人々は、何とかしてスペインの暴政から解放されようと独立運動を続けていましたが、その度にスペインに弾圧され、力で屈服させられていました。

その後、1898年にアメリカとスペインによって米西戦争が勃発し、この戦争に勝ったアメリカが、以後フィリピンを植民地として支配することとなります


アメリカが支配を獲得した当初も、アメリカ人は現地の人々の猛烈な抵抗にあい、アメリカ軍はその勢力を押さえ込むために数十万人規模の虐殺を行うなど、暴力で押さえ込んでいましたが、スペインの暴力的な植民地政策から学んだアメリカは、フィリピン人の独立心を上手くやりこめる次のような融和政策を採るようになります。

まず、現地の人々のためのインフラ整備を行い、経済を立て直して豊かな生活を提供し、また、独立運動家たちには政治政党の結成を認め、広く教育を施し、極めつけには将来の「独立」を約束するなど、まるで日本がインドネシアで占領期に行ったような善政を敷いて、フィリピン人の心をつかんでいったのでした。


太平洋戦争の火ぶたが切って落とされたのはそんな折でした。

日本がそんなフィリピンを攻略したのは、1941年12月のことでしたが、日本は、そのように現地の人々が、アメリカの植民地政策にあるていど満足していたところに「解放」の旗を掲げてでやってきてしまったのです。

そして、さらにまずいことに、日本はフィリピンのそのような状況をよく把握していませんでした。

それが、のちにフィリピン各地で繰り広げられることとなる「悲劇」の大きな要因となってしまうのです。

失敗続きの日本の占領政策
結論から言うと、フィリピンで日本が占領期に行った軍政は、ほぼずべての面で失敗に終わりました


その原因は、以上のように、日本側がフィリピンの内状をよく把握していなかった点が上げられます。

また、日本軍のフィリピン占領当初、アメリカ軍にはアメリカ人兵士とフィリピン人兵士がおり、そのうち、占領後にゲリラと化したフィリピン兵が、民衆に紛れて日本軍をたびたび襲い、日本兵たちは次第に疑心暗鬼に陥っていきます。

日本軍は民衆とゲリラの見分けがつかず混乱し、フィリピンの民衆は、ゲリラの圧力と日本軍の圧力との板挟みになり、多数の犠牲者を出すことになってしまったのです。

また、日本軍におわれオーストラリアへ退却したアメリカ軍が、海上からフィリピンゲリラに武器弾薬や資金などを提供したことで、力が衰えるどころか強力になっていったフィリピンゲリラと日本軍との戦いは、時の経過とともに泥沼化し、地獄の様相を呈していくことになったのです。

このような経緯で、フィリピン人の心を掴むことが出来なかった日本は、苦し紛れにフィリピンの「独立」を承認してフィリピン人を手なずけようとしますが、基本的に親米路線のフィリピン人たちは日本の思惑通りにはならず、日本政府は、フィリピン独立後も内政干渉をたびたび行ったことで、さらにフィリピン人からの反発を招くことになるのです。


悪名高い「バターン・死の行進」と「マニラ虐殺」
以上のようなフィリピンでの日本軍政の失敗は、戦後、連合軍の占領政策により、日本国内における「日本=悪」のレッテル貼りに最も多く利用された事例であるため、戦後日本人のよく知る、「日本軍の行った残虐行為」のイメージそのものといえるでしょう。

その具体例のなかで、もっとも印象操作に多用されてきたものが「バターン・死の行進」「マニラ虐殺」という事件です。

まずこの2つの事件の内容を簡単に見ていきましょう。


「バターン・死の行進」とは次のような事件のことをいいます。

日本軍がフィリピンを制圧する直前、フィリピンに駐留していた、マッカーサー率いるアメリカ軍は、バターン半島というところで徹底抗戦の姿勢を見せていました。

ですが、真珠湾攻撃により、ハワイの基地が機能していなかったため、フィリピンには食料や医療品などの物資が届かない状態が続いており、マラリアに感染する兵士を看病することもできなければ、食料も残り一ヶ月分しか残っていないという状況にあったため、フィリピンの米軍にはとても日本軍と戦う力は残っていませんでした。

アメリカ本土からも、たびたびオーストラリアへの全軍退却命令が下っていたものの、マッカーサーが一人「徹底抗戦」を主張していたのです。

そこへ日本軍がやってきたわけですが、結局マッカーサーは日本軍の第一次攻撃こそなんとかしのいだものの、それから一ヶ月後に食料が尽きてしまったことから、部下の兵士7万人をフィリピンに置き去りにしたままオーストラリアへ逃げてしまったのでした。


そこで、食料を持たず、マラリアなどの疫病を患った米軍兵士(アメリカ兵とフィリピン兵)総勢7万人が日本の捕虜になったわけのです。

日本軍も、この7万人の捕虜に与えるほどの食料を持っていなかったため、急遽、サンフェルナンドという120km離れた都市へ捕虜を移送することになりました。

しかし、トラックが不足していたため、捕虜は炎天下を徒歩で向かうことになり、結果的に、この移送により、ただでさえ戦闘に疲弊していた米軍捕虜は、移動中に1万〜1万7千人(資料によって人数が異なる)の死者を出してしまったのでした。

この事件について、戦後、「日本人の残虐性」を誇大宣伝するため、この「バターン・死の行進」は日本軍による捕虜の虐待であるという決めつけが行われ、この捕虜の移送に関わった日本の将校が死刑に処されています。


また、もう一つの「マニラ虐殺」なるものは、次のようなものでした。

戦局が悪化し、日本軍が連合軍に押しまくられていた終戦間際に、フィリピン戦線での主戦場はルソン島の首都・マニラに移行していました。

ここへ落ち延びるまでに、日本軍は劣勢に追い込まれ、フィリピンゲリラだけでなく、数々の日本軍の暴挙に恨みをもった民衆からも容赦なく攻撃され、捕まった日本兵は刀で手足を切り落とされて、長い時間苦しまされるといった残虐な殺され方をされていました。

そうしてマニラまで生き延びた日本兵たちは、市内に入ってからも、一般市民とゲリラとの見分けがつかないという疑心暗鬼から、マニラ市内のフィリピン人を虐殺することとなってしまいます。

たしかに、日本軍によって、フィリピン人殺害の命令が下ったことは事実でした。

しかし、結局のところ、日本人が殺害した人数はどれほどの上るのかはまったく分かっていません。

なぜかというと、その後、アメリカ軍が軍艦からの艦砲射撃や空爆を連日行い、日本兵とマニラ市民を見境なく攻撃したため、マニラはちょうど東京大空襲のあとの東京のような焼け野原となってしまったのです。

日本軍がフィリピン人を歩兵銃で銃殺するのと、都市が壊滅するまで砲撃や空爆を行うのとでは、被害者の人数がまったく違うことは明らかです。

つまり、マニラにおけるマニラ市民の死者(約10万人と言われています)のほとんどは、アメリカによる攻撃によるものであることは明白だということです。

しかし、これもやはり、敗戦後、一方的にすべてが日本軍の「戦争犯罪」による被害として片付けられ、日本人だけが罪に問われることとなり、アメリカの「罪」についてはまったく不問に付されています。


日本敗戦後のフィリピン
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受け入れた後のフィリピンは、日本によって承認された「独立」も無効とされ、以前のようにアメリカの植民地に戻ります。(その後1946年7月に独立が認められます)

この史実を現在のフィリピンでは、アメリカによる「解放」とみなされる傾向にありますが、一方で、この「解放」については次のような見方も存在しています。歴史家のレナト・コンスタンティーノ氏の見解です。

「あれは『解放』ではなく、『再占領』でした。アメリカは、再びフィリピンを植民地とするために戻ってきたのです。我々は日本軍に対して戦ったように、アメリカの再占領をも拒むべきでした」

――小神野真弘 著 『アジアの人々が見た太平洋戦争』


これは、このアメリカによる「解放」、そして再度の「独立」ののち、アメリカにより「ベル通商法」という不平等条約を締結させられ、フィリピン経済がアメリカ企業に牛耳れる結果を招き、現在でもなお、実質的にアメリカに搾取されている状況にあることを重大視した意見です。


また、インドネシアをはじめとする他の東南アジアの国々のように、日本の敗戦後、旧宗主国との間で独立戦争を行い、武力で独立を勝ち取った国では、やはり日本と同様に欧米に牛耳られることなく経済的な発展を見ているという事実も背景にあるのです。


フィリピン人の日本観
以上のような経緯から、フィリピンの歴史認識では、第二次世界大戦・太平洋戦争で日本人に大変ひどいことをされたという認識が一般的になっています。

しかし、一方で、フィリピンから飛び立って行った「神風特攻隊」のその発進に使用された飛行場跡に、特攻隊をたたえる公園が作られ、特攻隊員の像が建てられるなど、決して中国や韓国のように「反日」一辺倒の受け止め方がされているわけではありません。

これは、フィリピン人の間でも、やはり世界中で有色人種が苦しめられた、欧米諸国の植民地支配というイメージが強くあり、日本の戦争行動が、その欧米の植民地支配に対する抵抗であったという見方がなされているからなのです。

つまり、フィリピン人の日本人観は、そのような実質的な戦争被害への悪感情と、日本の戦争行動の「歴史的な意義」を認める意味での好感とが、両方あるといえます。

そして、実際に戦争を経験し、日本軍の残虐行為にあった人々やその関係者が少なくなるにつれ、「歴史的な意義」の方が際立ってきていることも事実でしょう。






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