日本の戦争の歴史
▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ
 -鎖国とは?理由は?

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ
 -明治維新とは

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは
 -第一次世界大戦とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは
 -ミッドウェー海戦とは

スペイン・ポルトガルの植民地政策と日本の関係を簡単に解説

▼1400〜1600年代前半
②スペイン・ポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康





▼大航海時代
ヨーロッパ人が世界の植民地化を開始した当初、最も力のあった王国はスペインポルトガルでした。

1400年代末期から1600年代中頃までは、一般に「大航海時代」と呼ばれており、実質的にこの二大強国の時代だったといえます。

この二国は、前項で解説した「香辛料」をはじめとする貴重な品々の貿易を独占し、富を得るために、当時発明された羅針盤を駆使して海を渡り、香辛料の生産地で有名だったインドを目指したのでした。

この両国は先を競ってインドを目指しましたが、スペインは大西洋を西へ、ポルトガルはアフリカ大陸にそって南下することでインドに先に到着しようとします。

が、その結果、コロンブスを擁するスペインは、インドにたどり着くどころかアメリカ大陸を発見(1492年)してしまい、ポルトガルはアフリカ大陸の最南端(喜望峰)を回ることでインドにたどり着いたのでした。




つまり、コロンブスによる新大陸発見は、当時アメリカ大陸の存在を知らなかったヨーロッパ人が、地球を西に回ることでインドへたどり着くと信じてひたすら西へ船を進めた結果、偶然にも発見してしまったというたわけです。

インドまでの競争は、このようにポルトガルが先にインドに着くことで決着しましたが、スペインが新大陸を発見したことで、両国は、今度はアメリカ大陸の開拓により力を注ぐことになります。


そしてこれ以後スペインとポルトガルは、一方でアジアの植民地化に着手しつつ、アメリカ大陸の開拓にも魅せられ、中南米の植民地化に精力的に取り組みはじめます。

この二国は、まず本国からアフリカへ物資を輸出し、それらを売って奴隷(アフリカ人)を買い、その奴隷たちをアメリカ大陸へ連行して中南米の開拓に従事させ、さらにそこで得られた富を本国(スペイン、ポルトガル)へ送るという、「三角貿易」と呼ばれる貿易形態を確立して莫大な富を得ました。

そしてこの頃、アメリカ大陸では、富を搾取するために容赦なくネイティブ・アメリカン(インディアン)を虐殺し、ヨーロッパとアフリカから持ち込んだ伝染病を蔓延させた結果、幾つもの種族が絶滅してしまいます。

現在の中南米では、ブラジルがポルトガル語、その他の国ではスペイン語が公用語になっていますが、それはこの時代の両国による植民地政策の名残りなのです。




▼なぜヨーロッパ人は異世界の住人に友好的でなかったのか
しかし、ここでひとつの疑問が生じます。

ポルトガル人やスペイン人たちは、なぜ平和的にアフリカやアメリカ大陸の人々と接することができなかったのでしょうか。


その原因はひとえに「キリスト教の世界観」にありました。

当時、ローマ法王庁は、このスペイン・ポルトガル両国の貿易事業に莫大な資金を提供する代わりに、宣教師を同行させ、世界中にキリスト教を布教するよう命じていたのです。

そして、その「命令」は、次のような信じがたい内容のものでした。

① イスラム教徒やトルコ人はこれまでにキリスト教徒の国土を不当に占領し領有していたのであるから、彼らに対して行ってきた、また今後行うであろう戦争は正当である。

② 東洋各地やブラジルなどについては次のとおりである。救世主は未信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、自己の利害をかえりみない宣教師を派遣したので、彼らは布教地で優遇を受ける権利がある。彼らの言に耳を傾けなかったり彼らを迫害した者に対する戦争は正当である。

③ アメリカ大陸の原住民については次のとおりである。布教事業を妨害も圧迫もしない人々についてだが、彼らは自然法に反する重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、それをやめようともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。
――高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』より





このように、彼らにとっての「布教」は、異国の地で苦しむ人々を救済しようという慈善的な事業などではなく、ただ異教徒をキリスト教に改宗させ、キリスト教勢力の拡大を図るための事業でしかなかったのです。

そして、それを拒否する異教徒に対しては(時には拒否しない相手に対しても)、どんなに高圧的で非人道的な態度をとろうとも、ローマ法王が認めるところの「宗教的に正しい態度」であると信じられていたわけです。

つまり、バックに絶大な宗教的権力を持ったローマ法王の存在があったため、彼らは、異世界の住民から富を収奪することにも、奴隷化することにも殺害することにも、ほとんど罪悪感を感じることがなかったわけです。

さらに、キリスト教の布教という目的以外に、「貿易事業」を行って金儲けをするという目的意識も強くあり、その欲望の充足にこのキリスト教の価値観が都合よく作用したため、彼らの行為に歯止めを利かなくさせたのだともいえるでしょう。


以上のように、彼らヨーロッパ人には、はじめから異教徒である異世界の住人と友好的な関係を築くつもりなど、さらさらなかったわけです。

こののち、ローマ法王庁の支援を受けたスペインとポルトガルの時代が終息し、ヨーロッパの植民地争いの目的は、「キリスト教の布教」から、次第に単なる富の収奪、金儲けの色が濃くなっていきます。

ですが、キリスト教徒であるヨーロッパ人の、異教徒や異文化、異人種に対する優越感偏見差別心には変化は見られず、彼らは、自分たちの目的を妨害する異世界の人間たちを虐げることは「正義」だと堅く信じ続けました。

このような、ヨーロッパ人の持つ歪んだ「正義感」は、彼らがこの後、さらに世界中を侵略し続け、最終的に広島と長崎へ原爆を投下するに至るまで、一貫して貫かれた精神であったのです。

そのような数々の血塗られた暴挙は、この時代の「キリスト教の布教」という目的意識に端を発していたのです。



▼その頃日本では…
一方、この頃の日本はというと、室町時代から戦国時代へかけての動乱の時代でした。

鉄砲が伝来し、フランシスコ・ザビエルらポルトガル人宣教師たちが織田信長に接近することで日本にキリスト教を布教しようとしたのは有名ですが、その背景には上記のようなスペイン・ポルトガルと、その黒幕であるローマ法王庁の思惑があったわけです。




また、豊臣秀吉はキリスト教の布教を禁止し、「踏み絵」で有名なキリスト教の弾圧を行いましたが、これは、上記のようなキリスト教徒の横暴にいち早く反応し、キリスト教による日本列島の侵略を防ぐための措置でした。

それから、既にこの時期には、アジアではじめてフィリピンがスペインの植民地となっています。

「フィリピン」という国名は、スペインのフェリペ2世(英語名:フィリップ2世)という有名な国王の名に由来するものです。

秀吉は、フィリピンの植民地化や、スペインが世界の覇権を握ろうとしていたことも知っており、その覇権主義に日本は屈しない旨を、フィリピン経由でフェリペ2世宛に書簡で伝えています。

また、秀吉が行った「朝鮮出兵」は、このフェリペ2世率いるスペインに対抗して行われたのではないかという説もあります。

その後、二度の朝鮮出兵の失敗に加え、秀吉の死でいっそう衰えた豊臣政権は、関ヶ原の戦いで敗れて崩壊し、代わって政権を握った徳川家康が江戸幕府を開きます。

以上のように日本では、ようやく戦国時代に終止符が打たれ、江戸時代へと入っていく転換期でした。

そして、このときスペインとポルトガルの関係にも異変が生じ、やがてこの二大強国の時代が終わりを告げるとともに、1600年代の中頃から、代わってオランダが大々的に世界進出し始めることになります。

オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ



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