イギリスとフランスの植民地政策と日本の関係を判りやすく解説
▼1400年代まで
①ヨーロッパの世界侵略開始以前
▼イギリスとフランスの台頭
1600年代を通じてヨーロッパにおける貿易の中心を担ったオランダでしたが、度重なるイギリスとの戦争(英蘭戦争)に敗れ、次第にその勢いも衰えます。
そして、オランダに代わって勢力を拡大してきたのがオランダを敗ったイギリスと、1600年代からすでに小規模ながら海外進出を開始していたフランスでした。

この両国はまずアメリカ大陸の北部(現在のアメリカとカナダ)で植民地戦争を繰り広げ、次いで、それまで大半が手つかずの状態だったアフリカ大陸でも利権をかけて熾烈な略奪争いと奴隷貿易に明け暮れます。
この両国も例のごとくアフリカで黒人を奴隷化して米大陸へと連行し、彼らを米大陸の開拓に従事させ、そこで得られた富を本国へ送付するという、「三角貿易」でとことん荒稼ぎをしました。
しかし、1783年に、自国の植民地だった北米の大部分がアメリカ合衆国として本国・イギリスから独立すると、イギリスは主戦力をアジアへ向け、中東やインドを巡ってフランスと激しい戦争を繰り返します。
いうまでもありませんが、現在、アメリカでは英語が、カナダでは英語とフランス語が、アフリカでも英語、フランス語の両言語が公用語として採用されている国が多く、これはこの頃の英仏両国による植民地争いの結果です。

イギリスとフランスとの戦争はおおむねイギリスが勝利し、徐々にフランスの勢力が衰えを見せはじめ、イギリスが覇権を手中に収めます。
そのようなイギリス躍進の背景には、1700年代中頃に、海外の植民地で得た莫大な資金をもとに成し遂げた産業革命がありました。
この工業革命によって、イギリスをはじめとする欧米諸国は、いっそう強力な移動手段(蒸気機関車や蒸気船)と近代的な銃火器(兵器)を手にすることとなったため、欧米以外の国々との間の武力格差がさらに開き、植民地化も容易になったのでした。
▼その頃日本では…
地球の裏側でそのような熾烈な植民地争いが繰り広げられ、また、太平洋の遥か東では、アメリカ合衆国という巨大な国が建国するなどの大きな変革が起きている頃、日本は、江戸時代の平和をまさに謳歌している最中でした。
徳川幕府がいわゆる「鎖国」政策をとっていた江戸時代には、ヨーロッパ人とは、わずかに勢力の衰えたオランダとだけ貿易を行っていましたが、その背景には、上述のようにイギリスとフランスが、米大陸やアフリカ大陸にかかりきりで、日本を相手にしている余裕がなかったという事実がありました。
それから、江戸時代の約270年間には、戦争が一度も行われなかったことから、武器や防具などの兵器が、この間ほとんどなにも開発されることがありませんでした。
織田信長が鉄砲を導入した頃の日本は、当時の覇権国家、スペインやポルトガルと戦争をしても互角に戦えるほどの軍事力を有していましたが、以後、オランダ、イギリス、フランスなどの欧米諸国が世界中で戦争を繰り返し、兵器を開発し続けたことにより、日本との軍事力には格段に差が開いてしまいました。
そして、この時代に生じた軍事力の差が、このあとイギリスやアメリカの東アジア進出に際し、日本に危機をもたらすことになります。
→⑤アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ