オランダの植民地政策と日本の関係をわかりやすく解説
▼1600年中盤
③オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ
▼オランダの世紀
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年ですから、それから約100年間、スペインとポルトガルが世界中で植民地を拡大し、アフリカ人の奴隷化や中南米に置ける激しい搾取を行ってきました。
そして、この2国の植民地争奪戦は、最終的にスペインがポルトガルを併合することによりひとまず終焉を迎えます。
そうして迎えた1600年代初頭、ヨーロッパでは、当時スペインに領有されていた現在のオランダ(ネーデルラント)が、イギリスの協力を得て戦争を起こし、独立を勝ち取ります。(オランダ独立戦争)
その独立戦争をきっかけにして、それまで世界の植民地化を主導してきたスペインが衰退をはじめ、勢いを得たオランダが国外への進出を開始します。
オランダはまず、カリブ海の島々やアメリカ大陸の北部(現在のアメリカやカナダ)の植民地化に着手しました。
現在でも、カリブ海にはオランダに領有されている島が多く残っています。
それからアジア方面へも積極的に進出し、東インド会社というアジアでの植民地政策を円滑に実行に移すシステムを確立します。
これによりオランダは、インドをはじめとする、既にスペイン・ポルトガル領だった国々の領有権を次々に奪い、インドネシアのジャワ島などを拠点に、台湾や日本まで職種を伸ばしました。
その結果、この時代のオランダの首都・アムステルダムは非常に栄え、「黄金時代」と呼ばれるほどの繁栄を見せたのでした。
▼その頃日本では…
日本はその頃、ようやく戦乱の時代に終止符を打ち、以後、約300年間続くこととなる江戸時代の平和を謳歌しはじめたころでした。
江戸時代を通して日本はいわゆる「鎖国」の時代に入ります。
「鎖国」という言葉を聞くと、いかにも閉鎖的なイメージを受けますが、上述のとおり当時、スペイン、オランダの衰退によって、日本を訪れることができた遠方の外国はわずかにオランダに限られていました。
また、江戸時代になっても引き続き「外国からの侵略」への警戒感から、秀吉のキリスト教禁止令は受け継がれ、外国との国交は、長崎の出島でオランダ人と貿易を行うことだけが許されることとなったのです。
ここで、なぜオランダだけが貿易を許されたのか?という疑問が生じますが、その答えの最たるものは、当時日本まで来られる力があった国が遠方の国ではオランダだけだったことがあげられますが、もうひとつあげられる理由は、オランダは日本で積極的にキリスト教の布教を行おうとしなかったことも大きな要因でした。
ただし、そんなオランダ人であっても、決して気を許すことが出来ないという警戒感から、長崎の出島にのみ滞在を許し、それ以上深く日本列島には入り込ませないという措置がとられたのです。
江戸幕府も、やはり「キリスト教の布教」が、ヨーロッパ人の侵略手段であることをよく知っていたわけです。
また、当時は、オランダ以外にはどこも国交がなかったと思われがちですが、隣国である明(中国)や朝鮮とも交易がありました。
つまり、いわゆる「鎖国」体制とは、ただ単に江戸幕府が排他的な体制を敷いていたというわけではなく、時代背景に上記のような各国の事情があったのです。
⇒鎖国について詳しくはこちら

日本がそんな平和な時代を迎えている頃、地球の裏側では、以前のスペイン、ポルトガル、そしてオランダをしのぐ勢力が着々と力を付けていました。
イギリスとフランスです。
イギリスは、この時代に世界中の富を集めて繁栄したオランダとの3度に渡る戦争(英蘭戦争)に勝つことで、世界の植民地争いの主導権を奪います。
さらに、そのイギリスへの対抗心を燃やすフランスが、いまだ植民地化されていない土地を我先に奪取しようとしたため、この両国による、アメリカ、アフリカ、そしてアジア地方の植民地争いがさらに激化してゆくことになるのです。
→④イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和