日清戦争の原因をわかりやすく解説
▼1894〜1895年
⑥日清戦争
▼日清戦争 1894〜1895年
日本にとって、開国後の最大の問題は隣国である清国と、その属国であった朝鮮との関係にありました。
前述のように、東南アジアを次々に植民地化してきた欧米諸国はさらに北上する姿勢を見せており、加えて当時、徐々に勢力を伸ばしてきていたロシアが、北海道と朝鮮半島のすぐ北のサハリン、ウラジオストクまで南下してきていたため、日本列島、清、朝鮮半島は南北から挟み撃ちされるような状況にあったのです。

そのような状況を憂慮した日本は、まず、朝鮮半島をロシアの手から守らなければ国家の存続はありえないと考え、朝鮮を日本のような近代国家として自立させ、同盟を結ぶことについて協議しました。
その結果、明治維新直後の日本(明治政府)は、近代化と国交を結ぶ提案を、天皇の勅使として朝鮮に送りました。
が、もともと日本を小国として見下していた朝鮮は、西洋化し、近代化した日本を侮辱するかたちでこれをあっさり拒否しました。
これにより日本政府内での「征韓論」を抑えきれなくなり、日本は朝鮮に対し圧力をかけるかたちで影響力を行使せざるを得なくなります。
しかし、その朝鮮を長年属国としていた清国がこれを黙認するはずもなく、日本との間で「日清戦争」が勃発します。
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この「日清戦争」は、日本にとって大きな意味を持った戦いでした。
日本は開国当初、中国、朝鮮と同盟を結ぶことによってアジアの団結を図り、そうすることによって欧米諸国から自国の領土を守ることが理想だと考えていました。
しかし、歴史的に中国と朝鮮が日本を小国として侮ってきたという事実を前に、開国早々挫折し、また、この両国が、「欧米の植民地化」という危機にも日本ほど深刻視していなかったことから、明治政府は、「アジア団結」の志はまったく実現不可能であることを思い知らされたのでした。
要するに、中国人や韓国人の「反日」は戦後始まったものではなく、中韓両国はこの時代からすでに日本を毛嫌いし、敵視してさえいたわけです。
これにより、日本は「アジア」という小さな括りに捉われている場合ではないことを悟ります。
そして、アジアの団結力に頼るのではなく、日本一国で欧米諸国と対等に肩を並べ、そうすることで日本の国土を欧米の侵略から守ろうという、「脱亜入欧(アジアを脱し、欧米列強に肩を並べる)」の考え方にシフトしたのでした。
この日清戦争は、日本の「脱亜入欧」がかかった一戦となりました。
そして、結果的にこの一戦に日本は勝利します。
この勝利によって日本は、清国から正式に遼東半島、台湾、澎湖諸島を得、朝鮮を清国から独立させ、日本の影響下に置くことに成功しました。(朝鮮は、この時点ではまだ日本に併合されてはいません)
また、この勝利により、「脱亜入欧」の理想に一歩前進したことで、日本は欧米諸国からも一目置かれる存在になったのですが、この後、それが返って日本を窮地に立たせることになります。
→⑦日露戦争