日本の軍政と、信頼関係の末路
日本は当初、鈴木大佐の進言でビルマ独立義勇軍を中心とするビルマ人による臨時政府を設立し、ビルマを速やかに独立させる予定で動いていたため、ビルマ人たちは期待を膨らませていました。
しかし、結局大本営の下した決断は、日本軍による軍政の開始でした。
理由は独立義勇軍のアウンサンら幹部の年齢がまだ若かったことや、イギリスの圧力がいまだ強かったことから、独立は時期尚早という判断が下されたためでした。
これに失望したアウンサンを中心とするビルマ独立義勇軍は、日本への不信感を抱きはじめますが、間に信頼厚い雷帝・鈴木大佐がいたことで、なんとか怒りを抑えているといった状態でした。
鈴木大佐は、大本営に対し、彼らビルマ人の独立を進言し続けましたが、これが大本営から煙たがられる原因となってしまい、鈴木大佐の東京への異動命令が下されてしまいます。
これにより、独立義勇軍をはじめとしてビルマ人たちの気持ちは完全に日本から離れてしまうことになったのでした。
日本はこれを受け、ビルマ人の信頼を回復するため、1943年にビルマの独立を認めることにします。
ただし、首相には、アウンサンら独立義勇軍の若い運動家ではなく、イギリス植民地時代に首相を務めた経験があり、反英的な言動から逮捕・投獄されていたバ・モウを据えました。
そかし、この「独立」によるバ・モウ政権は、日本軍のビルマ国内での活動も認められるなどの約定付きのものであったため、日本の傀儡政権であることは明らかでした。
そのため、若いアウンサンらはいぜんとして不満を持ち続けますが、バ・モウは老獪な政治家だけあって、日本の傀儡政権として、逆に日本を利用することでイギリスの侵略を退ける考えのもと首相を務め、アウンサンらとの折り合いをつけることとなったのでした。
インパール作戦の失敗と、ビルマの裏切り
ビルマの西隣のインドは、香辛料の産地であったことから、1500年代の大航海時代からヨーロッパの国々がこぞって植民地化しようと上陸し、インド国内で戦争を繰り広げるまで至りますが、やがてその戦争に勝利したイギリスがインドでの覇権を握るようになりました。
そんなインドでは、活発に独立運動が行われており、独立活動家が日本に亡命するなど、欧米諸国からの独立という同じ目標を掲げた日本とインドは、非常に深い関係にありました。
インド人たちもまた、日露戦争に置ける日本の勝利には多いに触発され、イギリスからの独立を、日本を利用する形で実現しようと試みていました。
そのため、インドにとって、隣接するビルマをイギリスから日本が奪取したという事実は非常に大きな意味を持つ出来事でした。
日本に亡命していたインド人たちは、ビルマからインドへ日本軍を進軍させ、他の東南アジア諸国のようにインド国内からもイギリス軍を駆逐してもらうよう働きかけていたのです。
その悲願が実現したのが、太平洋戦争が末期にさしかかった1944年3月の「インパール作戦」でした。
この作戦は、ビルマ国境にほど近いインパールというインドの都市をイギリス軍から奪還するための作戦でした。
しかし、この「インパール作戦」は、日本軍の補給がずさんであったことから極度の食料難に陥り、投入された日本軍10万人のうち、7万人は戦死するほどの甚大な被害を出してしまいます。
さらに、この作戦の失敗によって、日本の太平洋戦争での敗北が決定的となってしまったとまでいわれるほど、日本軍全体に大きな損害を出してしまうことになるのでした。
この「インパール作戦」失敗ののち、ビルマ奪還のためにさらに攻勢を強めてきたイギリス軍に押され、徐々に日本はビルマの各都市を奪われていきます。
そして、最終的に1945年、日本のポツダム宣言受諾を目前にして、ビルマ国民軍を率いるアウンサンが日本に見切りをつけイギリス軍に寝返り、クーデターを起こしたで、日本のビルマ支配は終わりを告げます。
これにより、ビルマ国政府も崩壊し、バ・モウ首相をはじめとする政権中枢の親日派は日本に亡命することになったのでした。
日本敗戦後のビルマ
ビルマの裏切りは、日本の大東亜戦争敗戦を見越した判断としては、仕方のないものでした。
が、その後、やはり再度ビルマを占領するために戻って来たイギリス人からは、なかなか「独立」を認められず、アウンサンはイギリス本国へ直談判に訪れるなどの努力を続けました。
その結果、ちょうどイギリスの政権が、植民地主義のチャーチル内閣から、穏健派のアトリー内閣に変わった時期でもあり、また、世界が冷戦に突入しかけていたこの時期に、共産主義勢力が台頭する前にビルマを独立させるべきだという打算もあり、アトリー内閣によってビルマは一定の制約を受けつつも完全な独立が認められます。
以上が、日本の占領期を経てビルマが独立するまでの経緯になります。
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