オランダの植民地政策は、一言で評するなら「合理的」という言葉がしっくりとくる。(中略)その実態は人が人を家畜化していくプロセスにほかならないからだ。 オランダはインドネシア農民の土地を奪い、コーヒーやサトウキビ、染料に利用する藍など、利益率の高い作物をつくらせる「強制栽培制度」を開始した。それまで見渡すかぎりに広がっていた水田は畑に変わり、その結果、あちこちで飢饉が起き、人口が半減する地域もあったという。 こうして得られた作物の利益はオランダ政府や、オランダの息のかかった華僑がすべて吸い上げ、インドネシアの人口中0.5パーセントに満たないオランダ人が総生産の約65パーセントを独占するという現代の感覚からすると異常な社会が形作られた。 さらにオランダの植民地支配を象徴するのが徹底的な愚民化政策だ。 農業をするだけならば教育は必要ない。そのためオランダはインドネシア人に教育を施さず、民衆を文盲のままにした。知識階級が生まれることで独立心が芽生えることを防ぐという狙いもあった。 (中略) 集会や団体行動も禁止され、3人以上のインドネシア人が路上で立ち話をすることすら許されなかった。一部の公共施設には「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれた看板が掲げられていた。 ――小神野真弘 著 『アジアの人々が見た太平洋戦争』 |
このように、オランダ人はインドネシアの人々から徹底的に搾取していたばかりでなく、そのような状況から抜け出す機会さえも奪うという非道な行為を平然と行っていたのです。
このようなことが過去300年間もアジア各地で続けられてきたという実情を、知っているのと知らないのとでは、その後行われることになる日本の戦争行動の見方もまったく違うものになることは言うまでもないでしょう。
しかしながら、このような非人道的な植民地政策は1900年代初頭になると、世界的に見直されるようになり、オランダはそのような世界の批判に背中を押される形でごく少数のインドネシア人(数千人程度)にだけ教育を施すようになります。
すると、やはりオランダが危惧していたように、その教育を受けたインドネシア人の中から「独立」「解放」を志す風潮が生まれ、さらに1905年に、同じ有色人種の国である日本が、日露戦争において欧米列強のロシアを打ち負かすという大事件が起きたことで、俄然、それらインドネシア人の独立心は激しいものとなっていきます。
この頃からインドネシアでは、オランダを相手にした独立運動が盛んになりました。
とはいえ、利権を守ろうとするオランダ人の圧力はもの凄く、独立運動家が逮捕・監禁されるなど、なかなか思うようには行きませんでした。
そうして迎えた1942年1月、日本軍がインドネシアへ上陸、瞬く間にオランダ軍施設を占領し、3月にはオランダ軍を無条件降伏させてしまいます。
「我々インドネシア人は、オランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡知なスパイ網と強靭な武力と過酷な法律によって圧倒され、壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である」 アラムシャ・ラトゥ・パーウィラネガラ インドネシア陸軍中将 |
このように、インドネシアへ進攻した日本軍は現地の人々に大歓迎され、現地では当時、進軍してきた日本兵を取り囲んで親指を突き立てる「ジュンポール」と呼ばれる最高の喜びを示すサインにより迎えられたのでした。
日本の統治時代
これ以後、日本軍の軍政が開始されることとなりますが、日本軍が施した主な政策は次のとおりです。
●現地の稲作を復活させ、稲の品種改良や、除草の方法などの農業技術を現地人に伝授して飢餓を解消させる
●電気や上下水道、橋や道路、トンネルなどのインフラ整備を行う
●教育を広く普及させ、「近代化」に欠かせない知識や技術教育を施す
●オランダ人によって捕えられていた、スカルノをはじめとする独立活動家を釈放し、彼らを中心に独立義勇軍を結成させ、軍事的な技術を伝授するなど、独立運動の後押しする
●インドネシア人の主要な宗教であるイスラム教を容認する
当初、日本のインドネシア統治を指揮した責任者は今村均中将という人物でした。
今村中将による軍政は、非常に寛大で現地人の文化や意思を尊重したものでした。
中将は、日本政府からインドネシアで収穫した綿を大量に輸出せよとの命令が下った際に、インドネシアでは遺体を綿の布で包んで埋葬する習慣があったため、この習慣が守れなくなる危険があるという理由から、政府の命令を拒否したというエピソードも残っています。
また、現地に残っていたオランダ人にさえ行動の自由を与えたほどでした。
このように、今村中将の軍政はインドネシアの人々の心をつかみ、日本政府からの不評を買いながらも現地の人々を優遇する政策をとりつづけたということです。
インドネシア建国の父・スカルノ
そんな日本統治は1945年8月15日のポツダム宣言受諾によりに終焉を迎えますが、それに先立つ8月11日に、独立準備委員会の委員長に独立運動家のカリスマ・スカルノが内定し、インドネシア独立の準備はほぼ整いました。
そして、日本の敗戦から二日後の17日に、スカルノにより独立宣言が行われます。
しかし、日本軍の武装解除にやってきたイギリスから、すぐに元の宗主国であるオランダへインドネシアの引き渡しが行われると、オランダは再度インドネシアの植民地化に動き出します。
スカルノは、このオランダに対し再三「独立」を認めるよう交渉を行いますが、オランダはこれを受け入れず、2年後の1947年7月に、とうとう武力衝突に至ります。
この インドネシア独立戦争は、1950年まで続き、再植民地化に必死だったオランダとの間で死闘が繰り広げられました。
軍事力でオランダに劣るインドネシアは、圧倒的不利な状況での戦いであるにもかかわらず、スカルノの「徹底抗戦」の呼びかけに応えてよく戦い、犠牲者が80万人を超す事態となっても諦めずに奮闘しました。
その結果、再植民地化に固執するオランダの姿勢に対し、国際的な批判が高まったことで、1950年8月15日、奇しくも日本の敗戦した日に独立が認められ、インドネシア共和国が誕生することとなります。
日本の思惑
インドネシア占領の日本の思惑は、もちろん、純粋にインドネシア人をオランダの圧政から解放し、独立させることにあったわけではありません。
日本は、主に大東亜戦争の遂行のため、インドネシアに埋蔵する 石油資源を確保することを目的としていました。
インドネシアの人々のための施策の数々も、やはり、インドネシア人に独立した国家を築かせることで、日本の安全を守ろうという打算があったことは事実です。
しかしながら、インドネシアの人々のことは、オランダ同様に、ただ自国の繁栄のための道具のように扱ったのかと言えば、まったくそうではないことは、上述の今村中将の軍政からも明らかでしょう。
また、このようなエピソードもあります。
日本の敗戦後、インドネシアの地に残っていた日本軍は、連合国から所持する武器を引き渡すように命じられ、連合軍到着までは、インドネシア人の「反乱」、すなわち、独立への動きを封じるように命令されていました。
つまり、敗戦後、日本兵たちは、それまで独立を支援してきたインドネシア人たちにとっては、その動きを封じる「敵」の立場になってしまったわけです。
そこで連合軍に手向かいすることは、日本の降伏文書にサインした天皇陛下に背くことになってしまうため、日本兵たちにはできませんでした。
そこで彼らは、武器庫から武器を出し、それをそのまま放置して山中へと入って行くという行動に出ました。
そして、その武器をインドネシア人に「奪われた」という形をとって、すべてインドネシアの人々に渡したのです。
そのまま武器を保管し連合国軍に引き渡せば、自分たちは無事に帰国の途につくことが出来たのですから、そのような危険を冒すことはなかったにもかかわらずです。
しかし彼らはインドネシアの独立のために、そのような行動に出ました。
つまり、彼ら日本兵たちは、インドネシアの独立を心から願っており、これからオランダとの間で行われるであろう独立戦争に勝ち、インドネシアには独立を勝ち取ってほしいと願っていたということです。
このことからも判るとおり、当時の日本人は、ただインドネシアを搾取することだけを考えていたのではなく、現地の人々とともに欧米諸国の植民地支配と戦っていたのです。
そのような日本人の行為があったからこそ、インドネシアの人々は独立を勝ち得、オランダの暴政から解放されることが出来たことは明らかなのです。
ちなみに、当然のことですが、現在のインドネシア人は、上記のような歴史的な経緯があるため非常に親日的な国民性となっています。
また、このようなインドネシアでの日本の軍政は、戦後の連合国による「検閲」により隠蔽された情報のうちの代表的なものといえるでしょう。
(C) warof.jp