まず、大前提の話になりますが、当サイトでも再三詳しく書いている通り、世界はこの時点で、植民地主義・帝国主義の時代が約350年続いていました。
植民地主義、帝国主義の時代というのは、わかりやすくいえば、ヨーロッパ諸国(欧米列強)が、アメリカ大陸やアフリカ、アジアを次々に侵略し、植民地とすることを競った時代です。
当時の世界情勢を示した地図をご覧下さい。
赤い部分がすべてヨーロッパに何らかの形で侵略され、影響下におかれていた地域です。中国大陸と中東、東南アジアの一部、日本列島を除いてほぼすべてが赤く塗られています。
ペリー一行が黒船に乗って浦賀にやってきたのは、要するに、日本列島を侵略し、植民地にするためであり、間違っても友好的な来航ではなかった、ということ、それが明治維新を知る上で最も重要な点、大前提ということになります。
⇒明治維新と同時期に中国大陸で怒っていたアヘン戦争についてはこちら
以上のように、日本を侵略するためにやってきたペリーの来航で、当然、幕府をはじめとする日本の世論は激震しました。
そこで、日本国内の実権を握っていた江戸幕府の、ペリーが突きつけてきた要求への対応が注目されました。
ペリーが何を要求したのかというと、「不平等条約の締結」でした。
不平等条約というのは、欧米諸国が他国を侵略する際の常套手段で、そこには理不尽なことが山ほど書かれており、それを締結するとその条約(約束)に則って経済的、軍事的に侵略が行われるというものです。
つまり、不平等条約を受け入れるということは、事実上、理不尽な侵略行為、搾取行為を合法化してしまうようなものなのです。
また、欧米列強はこの不平等条約を「友好」の名のもとに締結しようと迫ってくるので、それを断るということは「自分たちとの友好を拒んだ」という言い分を与えてしまうことになり、一転して強硬手段に訴える(戦争を仕掛ける)きっかけを与えてしまうことになるのです。
つまり、「不平等条約」の締結を迫られた時点で、とんでもなく大きないざこざに巻き込まれ、侵略されるかどうかの判断を迫られるわけです。事実、それを上手く切り抜けて欧米列強に侵略されなかった国は、この時点では世界中のどこにもなかったというのが実情でした。
日本が直面したのはそんなとてつもない危機でした。
そして、江戸幕府のとった対応は、結局のところ、ペリー来航の翌年まで考え抜いたあげく、不平等条約「日米和親条約」の締結でした。
つまり、ペリーの「提案」をキッパリ拒んでアメリカと真正面から戦争をする道ではなく、不平等条約を締結して鎖国体制をやめ、開国し、とりあえずそれ以後のやりとりにより国家の存亡を模索する道を選んだわけです。
この幕府の対応には不満を持った人々が多くいました。
彼らは、ペリーの圧力に対し、江戸幕府が開かれて以来続いていた鎖国体制の維持と、外国人の排斥を望む、攘夷論(じょういろん)を掲げていました。
また、天皇を中心とする朝廷が不平等条約の締結による開国を望んでいなかったことから、幕府は天皇に背いた、天皇を中心に日本の行く末を考えるべきだとして、尊王論(そんのうろん)というものも生まれました。
そして、この二つの勢力が次第に一つになり、江戸幕府打倒を掲げた尊王攘夷運動という革命的な運動が加速しはじめます。
つまり、江戸幕府の弱腰外交で日本国内にアメリカ人をはじめとする外国人が入り込むことを拒み、幕府ではなく天皇を中心とした新しい政府を作ろうというムーブメントです。
ただし、このムーブメントは、彼らのうちから、幕府の目を盗んでヨーロッパに留学した人々が、世界情勢を直接目の当たりにして帰国する等を経て、徐々に「攘夷」色が薄れはじめます。
彼らが直面したのは、それまで想像していた以上に日本のおかれている状況は厳しく、世界中でひどい仕打ちを受けており、特に軍事力がまったく桁違いだと言う現実で、そんな状況では到底鎖国体制などは維持できない、そんなことをしていては圧倒的な軍事力で潰され、植民地にされてしまう、という危機感でした。
そこで、むしろ開国し、日本も近代的なものの考え方や制度、技術等を積極的に取り入れて不平等条約を撤廃するだけの実力を付け、欧米からの侵略に立ち向かうべきだという考え方(富国強兵)に変化します。
そして、そのような将来像を一番強く急進的に思い描いたのが、後に明治政府の中心を担うことになる薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の藩士たちでした。
これらの勢力が、天皇を中心とした近代国家像を思い描きながら勢力を増していき、組織した軍隊を九州、中国地方から京都、江戸へと進め、戊辰戦争が勃発します。
戊辰戦争とは、以上のようにして幕府軍と、薩摩・長州・土佐藩を中心とした新政府軍の間で起こった闘いです。
この戦争はまず九州、中国地方から京都に集まった新政府軍が、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いと連勝し、江戸城に迫りました。
戦い以前に尊王派の新政府軍側では朝廷に働きかけており、朝廷から錦の御旗を与えられているという状況でした。
皇軍として戦った新政府軍に対して、賊軍というレッテルを貼られた幕府群は、著しく士気が低下しており、もはや勝ち目のない闘いでした。
ちなみに、近藤勇、土方歳三、沖田総司などで有名な新撰組は、幕府の組織として京都に滞在していましたが、彼らの物語のクライマックスとして、この戊辰戦争で著しく士気の上がらない状況下に置かれつつ、新政府軍と奮戦し、悲劇的な最期を遂げます。
その悲劇ゆえに有名になったのが新撰組だと言って差し支えないでしょう。
そして、江戸城に迫った新政府軍に対し、幕府は戦うことなく無血開城しました。
これによって事実上、江戸幕府は倒れ、最後の将軍である徳川慶喜は水戸に送られて、新政府軍が江戸城に入城しました。
戊辰戦争はこれで終わりではなく、以後も新政府軍に反感を持った旧幕臣たちによって続けられ、北関東、東北地方から函館まで追いつめた新政府軍が、箱館戦争に勝利することで終わります。
ちなみに、靖國神社とは、この戊辰戦争での政府軍側の戦没者を祀るために創建された東京招魂社が元になっています。
それは何を意味するのかといいますと、戊辰戦争(明治維新)の戦没者と、以後第二次世界大戦の終結まで世界を舞台に行われることになる数々の戦争の戦没者は、当時の人たちの感覚では、すべてペリーの来航以来、日本が直面した「国難」に殉じたものとして扱われていたということです。
▼明治新政府の発足と数々の改革
このようにして薩摩・長州藩を中心とした新政府軍が、とうとう明治政府を樹立し、明治天皇を中心とした「王政復古」を唱えました。
欧米では、「革命」といえばフランス革命などに代表されるように、王政を打倒するものですが、日本では逆に王政復古を成し遂げることで革命が成功し、近代化も成し遂げました。
これは非常に珍しいことで、世界史上でもまれに見るレアケースとなっています。
それはともかくとして、新政府はもちろん、維新政府樹立が目的だったわけではなく、欧米列強からの脅威を「富国強兵」で乗り越えることでしたので、これ以後暗闘とでも言うべき試行錯誤がはじめることになります。
改革の基本方針は、戊辰戦争以前に徳川慶喜が大政奉還して朝廷に実権を返した後に出された「五箇条の御誓文」が当てられ、断行されることになりました。
結果的に、この改革に成功したのかどうかは、それぞれの価値観によります。
当然これ以後、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦と、大きな戦争にも突入していきますし、江戸時代までの服装や頭髪などざまざまな文化面で欧米化していくことにもなります。
その評価は大きく別れるところではありますが、日本の歴史の一大ターニングポイントとして、明治維新というものが位置していることは紛れもない事実でしょう。
●明治天皇
…明治維新によりはじめて東京に移住してこられた天皇。明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」を発布。
wikipediaより
●徳川慶喜
…徳川幕府最後の将軍であり、日本の歴史上、最後の征夷大将軍。大政奉還により実権を朝廷に返還し、明治維新後、大正2年まで東京などで過ごす。
wikipediaより
●伊藤博文
…長州藩士で尊王攘夷派であったが、幕府に隠れてイギリスに留学し開国の必要を実感。岩倉使節団に参加後、初代総理大臣に就任。大日本帝国憲法制定の中心人物となる。日本に憲法をもたらした大きな存在。
wikipediaより
●西郷隆盛
…薩摩藩士で尊王攘夷派。戊辰戦争で新政府軍を指揮し、江戸城の無血開城を実現した。新政府では不遇の存在で、最後は西南戦争で政府軍と戦うことになってしまい戦死。
wikipediaより
●坂本龍馬
…土佐藩を脱藩した尊王攘夷派。新しい日本の在り方を模索し、長州藩と薩摩藩の間を取り持ち薩長同盟実現に尽力。戊辰戦争前に暗殺される。
wikipediaより
●勝海舟
…幕臣。江戸城の無血開城を提案し実現する。明治時代になって新政府から度々養殖を任されるも辞退し続けた。
wikipediaより
●岩倉具視
…公家の出身。岩倉使節団の正使として欧米を歴訪。不平等条約の撤廃に尽力。
wikipediaより
●近藤勇
…佐幕派・新撰組隊長。京都でたびたび尊王攘夷派の陰謀を妨げる。戊辰戦争で戦死。天然理心流の使い手。
wikipediaより
●土方歳三
…佐幕派・新撰組副隊長。近藤らと京都で活躍するも戊辰戦争では函館まで敗走。五稜郭で戦死。
wikipediaより
●吉田松陰
…長州藩士で明治維新における尊王攘夷派の精神的指導者。松下村塾を開き、若者を指導した。その若者たちが明治政府を担った。
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