ミッドウェー海戦が行われたのは1942年6月の5日から7日にかけて。つまり、太平洋戦争が始まって半年と少しの頃です。この間に何があったか簡単に説明すると、日本は連戦連勝を続けていました。
真珠湾を襲い、英国東洋艦隊を壊滅させ、タイ、マレー、フィリピン、シンガポール、ラングーン、インドネシア、ニューギニア、ソロモン諸島を次々に勢力下に収めています。あまりにも大勝利すぎて、戦線が伸びに伸び、これ以上どこで戦ったらいいか分からない、という、冗談にもならない状況でした。
人類史初の空母戦「珊瑚海海戦」
そんな中、1942年5月8日に珊瑚海海戦が起こります。
オーストラリア領パプアニューギニアの要地であるポートモレスビーを目指して「MO作戦」を展開する日本海軍と、これを防がんとしたフレッチャー少将率いる艦隊の間に行われた戦いです。
結果として、日本軍は空母祥鳳を、米軍は空母レキシントンを失い、日本軍はポートモレスビー攻略を断念しました。勝敗は微妙なところですが、痛み分けに近かったといえます。ただ、日本軍が空母を喪失するのはこれが初めてのことでした。
そして、人類の歴史において、「空母同士が刃を交え、艦載機を飛ばし合って交戦する」というのも、この海戦が最初のこととなりました。空母の打撃力が、第二次世界大戦の開戦以前に研究され予想されていたよりも遥かに大きなものであり、海戦の主力は空母となる、ということが明らかになったのが、この戦いであったのです。
日本の暗号は解読されていた―読み切られていたシナリオ
さて、そうはいっても戦況的な面では日本は相変わらず情勢をリードしているのですが、深く静かなところに、毒は忍び寄っていました。
アメリカが、日本軍の暗号をほぼ完全に解読できるようになっていたのです。もちろん、日本側はそれに気付いてはいませんでしたから、作戦などがほとんど筒抜けになってしまいました。日本の主力艦隊がミッドウェーに向かう、という情報も、アメリカは把握していました。
ミッドウェーというのは島の名前です。ハワイ諸島の北西にあり、基地が置かれている、そこそこの戦略要地です。日本軍は、ハワイ諸島攻略という大目標の足掛かりとするため、この島を占領し、同時に、防衛にやってくるアメリカ艦隊を撃滅する、という作戦を練っていました。
日本軍はミッドウェー空襲の準備をしていた
前述のように暗号を解読され、無線を傍受されていたため、日本の艦隊の居場所はアメリカ側には筒抜けでした。しかし日本側は、アメリカの艦隊が目の前に迫っているという事実を知らず、ミッドウェー島を爆撃するために、空母艦載機に、対地用の爆弾を搭載しているところでした。
そこに、日本側から見れば突如として、敵艦隊が姿を現します。使う艦載機は同じであっても、対地用の兵装と、対艦攻撃用の兵装は、異なります。珊瑚海でやったような空母戦を行うためには、兵器を積み替えなければならなかったのです。
運命の五分間―痛恨の作戦判断ミス
実際に、南雲忠一中将の判断のもと、南雲機動部隊所属各空母は、狭い空母の上で、既に搭載されている爆弾を艦載機から下ろし、別の爆弾に換装する、という、難しい作業を実行し始めました。
結論からいえば、この判断が命取りとなりました。間に合わなかったのです。あと五分あれば爆弾を積み替えて対艦戦闘の準備を整えた艦載機を発進させられた、と言われており、これを「運命の五分間」と言います。
赤城・加賀・蒼龍の最期
戦いが始まりました。敵機群が連続的に飛来したため、護衛を務めるべき零式艦上戦闘機はほとんどが出払ってしまいます。
そして1942年6月5日、日本時間(以下、時間は全て日本時間)午前7時。空母・加賀の見張り員が、「敵、急降下」の報を発します。しかし、打つ手はありませんでした。
爆弾を搭載した艦載機でいっぱいの飛行甲板に、次々に急降下爆撃が加えられました。加賀は大爆発を起こし、真っ二つに折れて沈没していきました。
蒼龍は3発の直撃弾を受け、大火災となり、総員退艦の末、午後4時過ぎに沈没しました。艦長の柳本柳作中佐は艦と運命をともにしました。
赤城は直撃弾こそ少なかったものの、強引な兵装転換のために格納庫内に散乱していた兵装などに引火して誘爆、炎上。消火が試みられましたがその甲斐なく、日本軍の駆逐艦四隻による雷撃によって処分されました。
▼ヨークタウンと飛龍
一方、日本側のもう一隻の空母・飛龍は、たまたま少し離れた場所、しかも雲の下にいたため、さし当たっては難を逃れました。
この時点で、貴重な残存空母となった飛龍を、戦場から離脱させる選択もあり得たかもしれません。しかし、飛龍艦上にいた山口多聞少将は、上からの作戦判断を待つことなく、米空母ヨークタウンに対する攻撃を開始しました。
飛龍、決死の戦い
さしものアメリカ艦隊も、三空母に対する総攻撃の直後で、隙を生じていました。飛龍の攻撃隊は次々に出撃し、ヨークタウンを攻撃、中破へと追い込むことに成功します。一方、ヨークタウンも飛龍の位置情報を友軍に知らせ、飛龍は空母エンタープライズからの猛攻撃を受けることになります。火災が発生し、飛龍もまた継戦能力を喪失しました。
168―伊号第百六十八潜水艦の殊勲
ヨークタウンは総員退艦ののち、わずかに残った航行能力で退却を試みていましたが、日本軍の執念深い追跡を受け、ついに伊168、伊号第百六十八潜水艦によって発見されるに至ります。
ヨークタウンは懸命にこれを撒こうとしましたが、ついには日本の執念が実りました。ヨークタウンに横付けして修理を行っていた駆逐艦ハムマンに伊168の魚雷が命中、ヨークタウンは誘爆に巻き込まれて致命傷を受け、その後しばらくして沈没しました。6月7日のことです。
なお、第二次世界大戦の全期間全参戦諸国を通じ、潜水艦によって沈められた空母はこのヨークタウンを含めて三隻ですが、戦艦によって沈められた空母は二隻です。海の大要塞たる空母にとっても、潜水艦というのは恐るべき伏兵なのだということを示す話であると言えるでしょう。
雷撃処分される飛龍―山口多聞戦死す
飛龍の方は、それに先立つ6月6日、駆逐艦・巻雲の雷撃によって処分されました。山口多聞は救助され退艦していく乗組員たちを見送った後、飛龍のブリッジに残り、飛龍とともに太平洋に消えました。
こうして、日本軍側もただやられるだけには終わらなかったとはいうものの、事実上は日本側の破滅的な大惨敗として、ミッドウェー海戦は終結しました。
ミッドウェー海戦で、日本海軍は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」という四隻の、虎の子の空母を喪失しました。なお、戦死者の比を表すと日本側約3000、米軍約300となります。
よく言われる話として、太平洋戦争をめぐる、日本とアメリカの工業力の差の問題があります。簡単に言うと、アメリカが一年間に建造することのできる艦船の数は、もちろん空母も含めて、日本より圧倒的に多かった、という話です。
太平洋戦争初期についていえば、日本海軍は決して弱体な軍隊ではありませんでした。総合力でいえば最初からアメリカ海軍が最強だったのは間違いないのですが、アメリカ海軍が今も昔も抱える弱点として、「太平洋と大西洋にそれぞれ艦隊を振り分けなければならない」という問題があります。大西洋ではドイツ海軍が活躍していましたから、アメリカ海軍の全艦船を太平洋に送ることはできません。
一方、日本はユーラシア大陸東端に位置し、ほぼ一方面に海軍兵力のすべてを投入可能です。この優位性により、日本の太平洋艦隊こそ当時世界最強の海軍であった、と唱える人もあります。
ですが、それもミッドウェーまでの話です。工業力に劣る日本軍は、わずか3日間での空母四隻の喪失という痛手から、二度と立ち直ることはできませんでした。太平洋全域の制海権を掌握してアメリカとの講和に持ち込む、という、おそらくはたった一つの勝機も、ここで完全に失われました。
この先、日本軍は太平洋方面においては華々しい戦果を得ることがほぼなくなり、1945年8月15日への降伏の日まで、凄絶な後退戦を繰り広げていくことになるのです。
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