日本の戦争の歴史
▼1400年代まで
ヨーロッパの世界侵略開始以前まとめ

▼1400~1600年代前半
スペインとポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
 -コロンブスは何をやったのか
 -アジア初の植民地・フィリピン

▼1600年代中盤
オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ
 -鎖国とは?理由は?

▼1600年代後半~1700年代
イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和

▼1800年代
アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へ
 -明治維新とは

▼1894~1895年
日清戦争

▼1904~1905年
日露戦争
 -韓国併合(日韓併合)とは
 -第一次世界大戦とは

▼1941〜1945年
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)
 -太平洋戦争 年表
 -日本の「アジア侵略」の実態
 -大東亜共栄圏とは・八紘一宇とは
 -大東亜戦争と太平洋戦争の違い・名称について
 -東京裁判とは、A級戦犯は何の罪で裁かれたのか
 -子供でもわかる「日本の戦争の歴史」
 -慰安婦問題・強制連行の実態について
 -戦後70年談話(安倍談話)とは
 -ミッドウェー海戦とは

ミッドウェー海戦をわかりやすく簡単に解説 太平洋戦争最重要の戦い

▼1938〜1945年
⑧第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)





<第二次世界大戦・太平洋戦争 年表>

▼1941年12月8日 真珠湾攻撃に成功
昭和16年12月8日・午前7時35分、太平洋沖に停泊中の空母6隻から、第一陣として183機、第二陣として167機の航空機からなる攻撃隊が出撃し、ハワイ・オアフ島真珠湾のアメリカ軍基地を爆撃。

基地内の戦艦や空母、航空機を次々に破壊しました。

日本はこの奇襲直前に、アメリカ本土の日本大使館から宣戦布告文をアメリカ側へ渡す予定でしたが、大使館職員が暗号読解に手間取り、日本の宣戦布告が真珠湾攻撃後になってしまうという大きな失態を犯しました。

そのため、この攻撃に「だまし討ち」というレッテルを貼られ、「日本=悪」という宣伝に利用されることにもなってしまったのです。(国際法上、最初の攻撃の1秒でも前に宣戦布告がなされれば合法ということになっています)


▼1941年12月10日 マレー沖海戦に勝利
出だしこそ手続き上のミスで躓いた日本でしたが、それ以後は順調に戦局を進めていきます。

真珠湾攻撃のあった8日には、同時に日本軍は当時イギリスの植民地だったマレー半島にも攻撃を仕掛け、半島への上陸に成功していました。

この戦争の日本の大きな目的のひとつとして、インド方面へ通じる「シーレーン」と呼ばれる物資の輸送ルートの確保がありました。

シーレーンを封鎖し、石油をはじめとする様々な物資の輸入を遮断して、日本の孤立化を図ろうとしていたアメリカ、イギリス、オランダ、中国の包囲網(いわゆる「ABCD包囲網」)を突破し、輸送ルートを確保したかったのです。

また、東南アジアは石油をはじめとする資源の産地でもあり、その東南アジアは当時ほとんどが欧米諸国(主にイギリス、オランダ、アメリカ)の植民地でした。

東南アジアの攻略は、このシーレーンおよび資源の確保が第一の目的であり、第二に、これらの国を欧米諸国の植民地から解放し、独立させることで、日本との強固な同盟関係を構築して、アジアを欧米の植民地政策から守ろうというものでした。(「大東亜共栄圏」とはそのような理想を掲げた同盟関係のことをいいます)

その日本の悲願達成には、当時、連合国軍が拠点としていたこのマレー半島を中心に、東南アジア一帯の欧米植民地からの解放が必須だったというわけです。


マレー沖海戦で日本は、当時無敵を誇っていたイギリス海軍と戦い、イギリスの戦艦を陸上爆撃機で撃沈するという斬新な戦法により勝利を収めます。

当時のイギリス首相チャーチルは、戦後、このマレー沖海戦での敗北が「第二次世界大戦でイギリスが最も大きなショックを受けた敗北だった」と語っています。

マレーシア・シンガポールで日本は何をしたのか、詳しくはこちら

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▼1942年1月2日 マニラ占領
マレー沖海戦に勝利し、主導権を握った日本軍はつづいてフィリピンのルソン島を攻略します。

当時フィリピンはアメリカの植民地で、フィリピン人部隊を含む実質的なアメリカ軍の数は15万人。対する日本軍は4万5千人でしたが、日本側はよく訓練されており、なによりも一人一人が勇敢であったことから、アメリカ軍を撃破することに成功。フィリピンの首都マニラを占領します。

当時、フィリピン駐留アメリカ軍の総司令官だったダグラス・マッカーサーはこのとき、フィリピンからの撤退を余儀なくされています。

フィリピンで日本は何をしたのか、詳しくはこちら
インドネシアで日本は何をしたのか、詳しくはこちら


▼1942年2月4日 ジャワ沖海戦に勝利

▼1942年2月15日 シンガポール占領
ジャワ沖海戦により、イギリス、オランダ、アメリカ海軍の艦隊を相手に圧勝した日本軍は、とうとうイギリスが東南アジアにおける植民地支配で最大の拠点としていたマレー半島の南端、シンガポールへ攻め込みます。

この戦いは、さすがに連合軍の拠点だっただけにあっさり陥落とまでは行きませんでしたが、日本軍は勝利し、東南アジアでの欧米諸国の植民地支配を急速に終息へ向かわせます。

この後、3月に行われたバタビア海戦により、連合国軍の艦隊をほぼ壊滅し、日本は東南アジアの欧米諸国を一掃し解放することに成功します。

日本はシンガポールで何をしたのか、詳しくはこちら

▼1942年4月18日 アメリカ軍、日本本土を初空襲(ドーリットル空襲)
アメリカ軍の空母から飛び立ったB-25爆撃機により、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸が空襲される。

アメリカは軍施設を爆撃しようとしましたが、誤爆したため、民間人に死傷者が出てしまいます。

この空襲は、日本軍により、真珠湾の攻撃以来たびたび行われたアメリカ本土に対する攻撃への報復として行われました。

ちなみに日本側の攻撃は、アメリカ西海岸を航行中のタンカーなど、貨物船を潜水艦によりたびたび攻撃していました。


▼1942年5月7日 珊瑚海海戦
この海戦により、日本軍とアメリカ軍が海上で空母を主力とした史上はじめての戦いを繰り広げましたが、互いに空母を1隻ずつ失い、その他両軍の空母も損傷が激しく、決着がつかないまま終わりました。


▼1942年6月5日 ミッドウェー海戦の敗戦【日本が劣勢へ】
東南アジアから欧米諸国を駆逐するまでの日本は非常に勢いがあり、作戦も的中して快進撃を続けてきましたが、このミッドウェー海戦から徐々にアメリカの反撃が強さを増していくことになります。

この戦いは、上記4月18日に行われたアメリカ軍による日本本土への空襲が、太平洋北部に浮かぶミッドウェー島を拠点にして行われたことから、その拠点を奪おうとして日本が仕掛けた戦いでした。

しかし、この戦いで結果的に日本は空母4隻と、航空機の多くを失う大敗を喫します。


この敗北後、日本は急遽空母の増産に乗り出しますが、物資や人員、燃料の不足などにより思うように増産できず、この海戦を境に戦力が目に見えて低下しはじめます。

一方アメリカは、真珠湾攻撃により大打撃を受けて以来、着々と空母、戦艦、航空機、レーダー、爆薬等の研究と増産が本土で進んでいたため、質量ともに日本との差が開きはじめます。

その頃ドイツからアメリカへ亡命していたアインシュタインが兵器開発に協力するなど、科学的見地から兵器の強化が進んでいました。

広島、長崎に落とされることとなる原子爆弾も、その一連の兵器研究のなかで開発されることになります。


また、日本では大本営(日本の総司令部)がこのミッドウェー海戦の敗戦についての報道を許さず、これ以後、戦況不利となっていく事実を国民に隠蔽するようになります。

ミッドウェー海戦をわかりやすく解説


▼1942年7月6日 ガダルカナル島へアメリカ軍が上陸
一時、日本が領有した太平洋南部の島々のうち、最東端にあるガダルカナル島に、いよいよ本格的な反攻に転じたアメリカ軍が2万人の海兵隊を上陸させ、日本軍の飛行場を占拠します。

これ以後、その飛行場を巡り、陸海空における日米両国軍の死闘が繰り広げられることになります。

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▼1942年8月8日 第一次ソロモン海戦に勝利
東南アジアからさらに東の沖合にある、ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺海域で行われたこの初戦では、日本軍がアメリカ、オーストラリア軍からなる艦隊を撃破し、勝利します。


▼1942年8月23日 第二次ソロモン海戦に敗戦
しかし、アメリカ軍の反攻により空母1隻を失った日本軍は混乱し、戦況はまさに泥沼化の様相を呈しはじめます。


▼1942年10月26日 南太平洋海戦
続くこの戦いで、日本軍はアメリカ軍の空母3隻を撃沈・大破させ、一時的にアメリカ軍も混乱します。

が、日本軍は度重なる戦闘で熟練の乗員が不足し、さらに遠方のため補給に支障が出て、前線への物資の補給が滞り、食料の不足が著しく餓死者を多数出すことになります。


▼1942年11月12日 第三次ソロモン海戦
そんななか、さらに反撃を試みるアメリカ軍に戦艦2隻を沈められた日本軍は、アメリカ軍により補給線を断たれたことが決定的な痛手となり翌年2月7日、日本軍はとうとうガダルカナル島から撤退します。

この頃よりアメリカ軍は、潜水艦を多く投入し、日本の補給を断つため、東南アジアから日本列島へ向かう補給船を待ち伏せし、改良の進んだ魚雷で次々に撃沈していきます。

これによって日本本土でも物資が窮乏しはじめ、新たな艦艇や航空機、弾薬、食料などの物資を前線に補給できないという危機的な状況へと陥っていきます。

ちなみに、この南太平洋海域における戦いはガダルカナル島の撤退以後も続きます。

この海域での日本側の最大基地はラバウルというところにあり、この基地はこのあと完全に補給が断たれ、自給自足の状態になりますが、それでもこの基地の守備隊は連合軍と果敢に戦い、終戦まで持ちこたえたということです。


▼1943年3月27日 アッツ島沖海戦

▼1943年5月29日 アッツ島守備隊玉砕
アリューシャン列島に浮かぶ島、アッツ島の攻防は、5月12日にアメリカ軍の上陸を許し、以後17日間の激闘の末に日本軍は玉砕、大本営発表ではじめてこの「玉砕」の単語が使用されました。

「玉砕」とは全滅のことです。


こののち、しばらく南太平洋での激戦は続きますが、補給線を断たれた日本にはもはや勝ち目はなく、ただ気力だけで持ちこたえるか、全滅するかという運命を辿ることになりました。


▼1943年9月30日 絶対国防圏を設定
南方での戦局悪化により、日本本土防衛のため絶対的に死守しなければならないとする領土・地点を決定



▼1944年11月5、6日 大東亜会議が開催される
大東亜共栄圏の結束を示すため、東京に各国最高指導者を招聘し、大東亜会議が開かれます。

参加国は日本のほか、 満州、中華民国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドです。

この会議により、 「大東亜共同宣言」が採択され、各国が強固な同盟関係を構築し、相互扶助のもと欧米諸国の侵略から自尊自衛の道を開き、世界平和を追求する旨が確認されました。

ちなみに、第二回大東亜会議の開催が翌年5月に予定されていましたが、この後戦局が悪化したことにより、開催できませんでした。


▼1944年3月18日 インパール作戦開始
インパール作戦は、イギリスによるインド支配の拠点で、インド北部の都市インパールを奪還しようと、インド国民軍を投入し、日本軍は9万人を動員して行われた大規模な作戦でした。

しかし、ここでもやはり補給が断たれた状態であったため、餓死者を多く出してしまい、大敗を喫します。

最終的には、翌年、ビルマ軍の寝返りにより日本はビルマを失うことになります。

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▼1944年6月17日 マリアナ沖海戦
43年9月に設定した絶対国防圏の重要地点であるマリアナ諸島にアメリカ軍が攻め寄せ、沖合で激しい海戦が展開されます。

日本軍は、最新鋭の戦闘機やレーダー、空母を15隻も投入してきたアメリカ軍に一方的に惨敗を喫し、絶対国防圏が破られることになってしまいます。


▼1944年7月7日 サイパン島守備隊玉砕
ほぼ同時期に、サイパン島陸上でも激しい戦闘が行われましたが、制空権、制海権ともにアメリカ軍に奪われた状態で陸海空から攻められ、サイパン島だけで3万人の守備隊員が玉砕。


▼1944年8月11日 グアム島守備隊玉砕
つづくグアムの戦いでも同様に1万8千人の守備隊が玉砕します。

このサイパン、グアムの戦いに敗れ、2つの島にアメリカが駐留することになったことで、アメリカ軍の日本本土への空襲が可能となってしまいます。


▼1944年10月23日 レイテ沖海戦に敗北
アメリカ軍は勢いに乗じてフィリピンのレイテ島へ進攻。

この上陸を阻止するため日本海軍は戦力のすべてを投入しますが失敗し、戦艦、空母など海上戦力のほとんどを失い壊滅的な状態となります。

レイテ島への上陸を許したあとは、陸上でも激戦が繰り広げられましたが日本に勝ち目はありませんでした。

ちなみに、このレイテ沖海戦での敗北により航空機での体当たり作戦が考案され、フィリピン死守の戦いから「特攻(特別攻撃)」が行われることになります。


レイテ島に続き、アメリカ軍は、ルソン島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島と進攻し、それぞれ日本軍と激闘を繰り広げたのちにフィリピンを占拠すると、次のターゲットに沖縄を選びます。

また、フィリピン陥落により完全にシーレーンが断たれた日本は、本土でも物資が欠乏し、ほぼ戦争継続が不可能な状況になりつつありました。

加えて、制空権を奪ったアメリカ軍により本土への空襲も激しさを増していきました。


▼1945年3月10日 東京大空襲
昭和20年3月10日、東京上空を飛来したアメリカ軍のB-29爆撃機による無差別爆撃により、一夜にして10万人以上もの民間人が虐殺されました。

これはあきらかな国際法違反ですが、アメリカ軍は戦後何も責任を追及されていません。

日本を空襲していたアメリカは当初、誤爆を除いて軍事基地や軍需工場へのみの空襲しかしてませんでしたが、この頃から、東京のほか大阪、名古屋、神戸、静岡など、全国の主要都市の民家に対し平然と無差別爆撃を行うようになり、民間人を大量に虐殺することが当然ようになっていきました。

この感覚の鈍化、モラルの低下が後の広島、長崎への原爆投下に繋がったことはいうまでもありません。


▼1945年3月26日 硫黄島守備隊玉砕
東京都の小笠原諸島に属する硫黄島を賭けたこの激戦では、両軍あわせて5万人の死傷者を出す激戦となりました。

日本軍は2万人近い兵士がほぼ全滅しています。


▼1945年4月1日 アメリカ軍、沖縄本土上陸
沖縄上陸を試みるアメリカ軍に対し、日本軍は民間人を動員し必死の地上戦を展開しましたが、両軍と民間人あわせて数十万人の死傷者を出した末に上陸を許しています。


▼1945年7月26日 米英中、ポツダム宣言により降伏を勧告
日本はこれを黙殺。

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▼1945年8月6日 アメリカ軍、広島に原爆を投下
そうして迎えたこの日、とうとう1発目の原爆が広島に投下されます。


▼1945年8月9日 アメリカ軍、長崎に原爆を投下
広島の3日後には2発目が長崎へ。

この2発の原爆投下は、日本の分割占領を主張したソ連への牽制の意味もあってアメリカ当時の大統領トルーマンにより決定されたとのことです。


▼1945年8月14日 ポツダム宣言を受諾(無条件降伏)

▼1945年8月15日 玉音放送
ポツダム宣言の受諾決定から、昭和天皇による玉音放送、そして16日には大本営により全部隊へ戦闘行為の停止命令が発せられ、さしたる混乱もなく戦争は終わりを迎えました。

ただし、最後の最後になって参戦したソ連はスターリンの命令により、少しでも日本の領土を奪おうとこの後も攻撃を続け、樺太(サハリン)、千島列島(北方領土)、満州国を次々占領し、日本人を殺傷しました。


▼1945年9月2日 降伏文書調印式
昭和20年9月2日、東京湾内に停泊した戦艦ミズーリ艦上で行われた降伏文書への調印式で第二次世界大戦は終結しました。

これにより、日本の戦後処理がはじまります。


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 -オランダ領東インド(インドネシア)の場合
 -フィリピンの場合
 -ビルマ(ミャンマー)の場合
 -イギリス領マヤラ(マレーシア・シンガポール)の場合
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