▼鎖国とは?
「鎖国」とは、江戸時代に行われていた外交・貿易政策の呼称です。
内容を簡単に解説すると、基本的に外国人も日本人も出入国は禁止され、貿易は長崎の出島等、一部の港に限定し、相手国も特定の国に限り、その他の国との交易は拒絶していました。
ただし、ここで一つ重要なことは、「鎖国」という言葉自体は明治時代以降になって作られた造語で、江戸時代の人々は誰も使っていなかったばかりか、そのような名前の制度も存在していなかったということです。
「鎖国」とは正反対の言葉に「開国」というものがあります。
「開国」とは、日本が明治時代になって近代化し、外国と頻繁に交易・交流を行うようになったことを指し、「文明開化」などと同義の、明治時代の現状をポジティブに表した言葉です。
そのように「開国」することを素晴しいものと捉えようとした反動で、明治時代の人々は、「開国」以前の江戸時代の日本が閉鎖的で孤立していたものととも捉えようとししました。
そのような心理が働いて生まれたのが「鎖国」という言葉と、その閉鎖的なイメージだということです。
それが現代まで長く使い続けられてきたということになります。
近年の研究では「鎖国」と聞いて思い浮かべるイメージほど、孤立して頑なに国を閉ざしていたというわけでもなければ、それなりに根拠があって合理的に行われていたものであったことが判明してきています。
では、「鎖国」と呼ばれるような制度はどのようにして生まれたのかを見てみましょう。
まず一つ前提として押さえておかなければならないことは、江戸時代の世界情勢についてです。
日本が戦国時代を終えて江戸時代に入るのと時を同じくして、それまでポルトガルとスペインが世界を二分する勢いで侵略を続けていましたが、両国ともにこの時期に国力が衰退しています。
それにより、地球の裏側である極東の日本になど構っていられなくなったことから、徐々に向こうから足が遠のいたという事情があります。
当然のことながら、ヨーロッパから日本まで船でやってくるには、かなりの費用と時間と人員と、頑丈な船とを要するので、そう簡単には来られなかったのです。
そして、その後、ポルトガル、スペインに代わって台頭したのがオランダでした。日本がヨーロッパの国ではオランダとだけ交易があったのはそのためで、それ以外の国は日本にやってくるほど力がなかったわけです。
ですから、日本になど到底来られなかった、たとえ来られたとしても貿易関係を結んで頻繁に往来するほどの力がある国はなかったというのが二つ目の事情。
そして、江戸時代中期になるとさらにオランダが衰退を始めますが、それに代わって台頭することになったイギリスとフランスは、主に矛先をアメリカ大陸北部とアフリカ大陸全域、中東からインド方面の植民地化に向けていて、さらにアメリカが独立戦争を始めるなどの大事件まで起こり、日本に構っている暇がなかった、という事情が三つ目にあります。
その後、そのようにアメリカ合衆国が建国されてから東アジアに意識が向き、ようやく幕末になって派遣されてきたのがペリー提督率いる黒船ということになります。ですから、日本にちょっかいを出すまでにだいぶ時間がかかったわけです。
要するに、日本は貿易したがる諸外国を拒絶し続けていたというのではなく、江戸時代を通じて世界の方からも用がなかった、暇がなかった、余裕がなかったというのがおおまかな実情だったわけです。
日本が閉鎖的な政策をとっていたことも事実ですが、世界の側でも以上のような事情を抱えていたのです。
ちなみに、江戸時代にはオランダとだけ貿易が行われていたように思われがちですが、お隣明国・清国(中国)とは普通に貿易関係にあり、オランダの倍近い金額の取引が行われていました。
その他にも細々とではありますが、李氏朝鮮や琉球(沖縄)とも交易がありました。
以上のようなわけで、日本が国を閉ざすまでもなく世界の方からも日本を訪れてこなかったわけですが、そういう諸外国の事情とは別に、日本にも「鎖国」する合理的な事情がありました。
江戸時代以前の戦国時代には、織田信長が頻繁にポルトガルと交易を行っていましたし、キリスト教宣教師を招き入れて、日本列島での布教も許していました。
その結果どうなったかというと、江戸時代初期の1637年に島原の乱のようなキリスト教を拠り所とした大規模な一揆が起こりました。
江戸幕府はこの一揆の平定に苦慮したことから、以後有名な踏み絵が行われてキリスト教が禁止され、キリスト教を積極的に布教させようとするポルトガルは出島からも追放ということになりました。(南蛮船入国禁止)
また、事実、ポルトガルとスペインは、別のページでも書きましたが、キリスト教の布教と侵略をワンセットで考え、世界中で宗教の力を利用して他国を自分たちの影響下に置こうとしてきた事実があることから、この徳川幕府の措置は至極妥当なものだったと言えます。
その後、交易を許されたオランダも、キリスト教の布教は禁止する旨を誓約させられています。オランダ人は、ポルトガル人ほどにはキリスト教の布教に熱心ではなかったことからこれを受け入れ、布教活動などは行いませんでした。
また、オランダはどう考えていたのかというと、ヨーロッパと日本との貿易を独占したいと考えていました。そのため、イギリスなどが日本に貿易を求めて近づいた際に、それを妨害したりなど、日本の「鎖国」に協力していた節がありました。
冒頭で述べたように、「鎖国」という言葉は明治時代以降の造語です。
現在では、以上のように、「鎖国」自体をそれほどネガティブには捉えず、わりと妥当な政策だったと捉える傾向にあります。
と同時に、むしろ日本人がそのように、明治維新で近代化したことを「開国」と呼んでポジティブに受け止めようとし、それ以前を「鎖国」という言葉でネガティブに表現しようとした、その心理に研究対象が移っているということです。
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