日本の戦争の歴史
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 -戦後70年談話(安倍談話)とは
 -ミッドウェー海戦とは

第一次世界大戦をわかりやすく簡単に解説

▼1914〜1918年
第一次世界大戦をわかりやすく簡単に解説







第一次世界大戦は、列強と呼ばれる強大な国々がそれぞれ世界に覇を競い合う、いわゆる帝国主義の時代を背景として起こったものです。その重要な伏線は二つあります。

▼第一次世界大戦の原因と始まり

一つは、1882年、オーストリアがドイツ・イタリアとの間に締結した「三国同盟」。これを主導したのは、高名なドイツの宰相ビスマルクでした。「鉄と血」の演説で名高い、ドイツの歴史を通じても屈指の大政治家です。

三国同盟とビスマルクの失脚
複雑怪奇な欧州情勢の間で、鉄血宰相ビスマルクは巧みな外交を展開し、諸国のバランスを取っていました。

しかし、1890年、ビスマルクは新たに即位した皇帝と対立して引退、実質的にいえば失脚します。これが二つ目の背景となります。ビスマルクという柱石を失ったドイツは以後、調整役としての機能を喪失し、軍備増強の道をひた走り始めます。


サラエボ事件の勃発
そして1914年6月28日。オーストリアの皇太子夫妻が、セルビア王国のサラエボで暗殺されるという事件が起こります。これを直接の引き金として、第一次世界大戦が勃発しました。

オーストリアはセルビアに宣戦を布告、そしてロシアがセルビア側で、ドイツがオーストリア側で、という具合に、雪崩を打つように諸国が参戦していきます。この先、ドイツ側を「同盟国」、フランス・ロシア・英国側を「連合国」と呼称します。

つまり、第一次世界大戦とは、「同盟国」と呼ばれる勢力と「連合国」と呼ばれる勢力が世界中で起こした一連の戦争群をさすわけです。(ちなみに日本は連合国側として参戦しました)

同盟国側の参戦国:ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国

連合国側の参戦国:フランス共和国、イギリス帝国、ロシア帝国、セルビア、モンテネグロ王国、ベルギー、イタリア王国、ルーマニア王国、ポルトガル王国、中華民国、日本、その他

第一次世界大戦は当時は「第一次」とは呼ばれておらず、「世界戦争」や「大戦争」などと呼ばれており、その名の通り、世界各地に戦場を生じた戦争です。

アフリカや中東、アジア太平洋地域のドイツの植民地等も戦場となりましたが、この世界大戦で最も重要なのは、やはりドイツが東西に連合国と対峙しての欧州戦線、すなわち東部戦線西部戦線です。

では、東部と西部の戦線をそれぞれ解説していきましょう。

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▼東部戦線 報いられぬ勝利

東部戦線は、主にはドイツとロシアの間で展開された戦いを言います。

戦線とは言いますが、ロシア軍の力がドイツに及ばなかったことから西部戦線が見せたような膠着状態はこちらにはさほどなく、古典的な陣地獲得のための戦いが展開されました。

タンネンベルクの戦いとロシアの大撤退
1914年8月26日、東部戦線。ドイツとロシアの間で、タンネンベルクの戦いと呼ばれる大決戦が起こります。ヒンデンブルク将軍と参謀ルーデンドルフ率いるドイツ軍は大勝利を収め、以後、ロシアは消極的な戦いを強いられるようになります。1915年には、「大撤退」と呼ばれる撤退戦によって重要拠点ワルシャワを放棄しなければならなかったほどでした。

ロシア革命の勃発と講和
以後も東部戦線は流動的戦局が続きますが、1917年、ロシア革命が勃発してロマノフ王朝が倒れ、ロシアの新政権はブレスト=リトフスク条約を締結して停戦、東部での戦いはここに終わりを告げました。


▼西部戦線 終わりなき塹壕戦

一般に「第一次世界大戦」と言ったときに漠然とイメージされるものは、たいていこちらの西部戦線です。

塹壕戦、毒ガス、戦車の登場など、主要な要素のほとんどはこちらで見ることができます。

マルヌの戦い―膠着の始まり
いったん時系列を遡り、1914年に話を戻します。

ドイツも、フランスも、この時代にあっては世界屈指の強国で、自国の軍事力に絶大な自信を抱いていました。それは両国の国民も同じでした。

兵士たちはみな、こう思いました。「クリスマスまでには戦争を終わらせて、家に帰れるだろう」。悲劇を招いたのは、双方がそう思っており、そして双方が、それに見合った、伯仲する実力を実際に持っていた、ということでした。

それでも初めのうちは、西部戦線においてもドイツが優勢でした。

フランス国内を破竹のごとく進み、パリに迫ります。マルヌ川を越えればもうパリは目と鼻の先、というところで、フランス軍と英国軍の主力部隊がその前に立ちはだかりました。世に言う、マルヌの会戦です。

双方が大損害を受け、ドイツは侵攻を停止せざるを得なくなり、ここに「塹壕戦」が始まります。

西部戦線は南北に縦断する長大な塹壕によって分断され、それを舞台に、泥沼のような戦いが延々と続けられたのです。

ヴェルダンの戦い―この世に現出した地獄
1916年、膠着状態に業を煮やしたドイツ軍は、フランスの拠点であるヴェルダン要塞への大規模な攻勢を開始しました。

戦いは丸10ヶ月に及び、第一次世界大戦を通じて最も長く激しい戦闘となりました。

両軍合わせて約70万人の死者が生じましたが、それによって諸国にもたらされたものは、以前と変わらぬ膠着状態だけでした。

新兵器 毒ガス・航空機・そして戦車
第一次世界大戦において初めて実戦に投入されたことで有名な兵器が三つあります。毒ガスと、航空機と、戦車です。

毒ガスは1915年4月に始めて導入され、11月のイープルの戦いで多くの犠牲者を出したことで知られています。当時の毒ガスはさほどの威力を持たず、またガスマスクなども早期に導入されたため大局にさしたる影響は与えませんでしたが、塹壕で戦う兵士たちにとっては恐怖の象徴そのものでした。

航空機に関して、ライト兄弟の初飛行は1903年のことです。
それが1914年から1918年にかけての戦争で、加速度的に進歩を遂げていったのです。

戦争後期になると、爆撃機による英国への空襲なども実施されています。のちの世の人はこれを「戦争の歴史における新しい時代の始まり」であったと述べました。

それから、戦車。
初めて戦場に投入されたのは英国のマークI戦車、1916年9月、ソンムの戦いにおいてです。
塹壕戦を一掃し、そして戦争の概念を塗り替える新兵器を目指して開発されたものでした。
そして、歴史が証明する通り最終的には実際にそうなるのですが、マークIはまだ開発途中であったものを前線指揮官が強引に実戦投入してしまったために様々なトラブルを生じ、当初は見た目のインパクトほどの活躍はできませんでした。

大戦後期にはかなりの発展を見せるとはいえ、やはり戦車がその真価を発揮し始めるのは、第二次世界大戦以降のこととなります。

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▼終局への道

長きに渡って膠着状態が続いた第一次世界大戦を終局へと導いたもの、その決定的な要因は、アメリカ合衆国の参戦でした。

無制限潜水艦戦とアメリカの参戦
うち続く消耗戦の中で、参戦諸国はどんどん国情を苦しくしていきました。第一次世界大戦の特徴の一つは、

それが「総力戦」であったということです。国の総力を傾け、一般の国民もいやおうなしに戦争経済の中に巻き込まれ動員された、ということです。

業を煮やしたドイツは、ついに「無制限潜水艦戦」の発動に踏み切ります。中立国の船であろうと問答無用で撃沈する、という凶悪な戦術で、先制攻撃の可能性を高めることなどから戦術的な効果は高いのですが、中立国を敵に回してしまう、という決定的な欠陥があります。

ドイツによる無制限潜水艦戦の宣言を受け、中立国であったアメリカはただちに商船を武装させましたが、ドイツが誇るUボートの相手となるものではありません。次々にアメリカ籍の商船が犠牲となり、アメリカの世論は怒りに染まりました。

その上、ドイツがメキシコに対し、アメリカが連合国についたらメキシコが同盟国側で参戦するよう秘密裏に打診していたという事実が発覚し、1917年4月4日、ウィルソン大統領のもとアメリカ合衆国は連合国側での参戦を決定します。

キール軍港の反乱と終戦
ドイツ指導部はアメリカ軍の欧州到来の前にフランスを倒そうとやっきになりますが、ただでさえ戦線が膠着していたので、フランスを倒すことはできませんでした。東部戦線が和平に終わってしまったこともあって、兵士たちの間にはどんどん厭戦気分が広がっていきます。

そして1918年春、アメリカからの遠征軍が西部戦線に本格参戦し始めます。ドイツ軍の前線では既に銃弾も食糧も尽きようとしており、補給路もズタズタになっていました。こうなればもう、あとは時間の問題です。

1918年11月、もはや同盟国の敗戦は誰の眼にも明らかとなっていました。とうとうドイツのキール軍港で一部の兵士が出撃命令を拒否し、これが波及して大暴動となり、ついには革命が勃発しました。

いわゆるドイツ革命です。皇帝ヴィルヘルム2世は11月9日、退位してオランダに亡命。そして11日、ドイツ臨時政府代表団が休戦協定に調印し、第一次世界大戦は終結しました。

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▼なぜ世界大戦は再び起きたのか 〜ヴェルサイユ条約から第二次世界大戦へ〜

さて、よく知られているように、世界大戦はこの後もう一度起こります。第二次世界大戦です。通説では1939年9月1日に、ドイツ軍がポーランドに侵攻した時点で始まったとされています。

第一次世界大戦の終結から、わずか20年しか経っていないわけです。

第一次世界大戦の後、世の人々は、こんな悲惨な戦争を人類が経験することはもう二度とないだろう、と考えたと言われています。それにも関わらず、実際には二度目の、そしてより悲惨な戦争が起こりました。

その重大な原因の一つは、第一次世界大戦において西部戦線の主戦場にされたフランスが、ドイツを深く恨み、事実上、その滅亡を図るに等しい戦後処理を行ったことにある、と言われています。

ヴェルサイユ条約と呼ばれる第一次世界大戦の講和条約において、ドイツは天文学的な賠償を課せられ、多くの領土を失い、そして、ここが特に重要なのですが、国を維持することもできなくなるほどの軍備削減を命じられました。

ドイツも諾々とこれに従ったわけではありません。戦場から帰ってきた多くの兵士たちは、公然の秘密と言うべき準軍事組織を形成し、秘密裏に活動を続けました。その中の一人に、アドルフ・ヒトラーという名の、伍長あがりの男も混じっていました。

こうして、人類が再び地獄の釜へと投げ込まれる伏線は、第一次世界大戦の終結と同時に、敷かれ始めることとなったのです。

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▼第一次世界大戦と日本
ちなみに、日本(大日本帝国)はというと、当事イギリスとの間で日英同盟を締結していた関係で、イギリスの要請により連合国側として参戦しています。

時期的には、日露戦争が終結し、第二次世界大戦が勃発する間ということになります。

日本は、主にドイツのアジア太平洋地域の植民地を戦場として、中国大陸では青島、太平洋ではパラオやマーシャル諸島などのドイツ領の島々を攻略しました。

上記の欧州戦線にも度々連合国の派兵要請を受けていましたが、当時は今のように簡単にヨーロッパ方面へなど派兵できるほどの移動手段が発達していませんでしたので、この要請を拒み続けていました。が、結局押し切られて海軍を派遣することに。

帝国海軍は小規模ながら、主にインド洋と地中海で連合国側の輸送船団の救助等に従事し、度々発生したUボートの攻撃にあった連合国軍の救助作戦に参加し、日本の海軍も度々戦闘に巻き込まれて多くの死傷者を出しています。

また、第一次世界大戦中に発生したロシア革命を機に決定した「シベリア出兵」にも73000人の兵力を送っています。


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